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〔前編〕

 すき焼きかしゃぶしゃぶ。
 どっちにする? と悩んだのは十秒足らず。四人全員一致ですき焼きに決まった。急ぎの依頼で昼食をほとんど摂らず、ばたばたばたと仕事をした。こってりしたのを口にしたい。
 ちょっとごめんなさいと席を立つ。いましがた注文を告げたばかりの店員に手洗いの場所を聞く。
 食べ放題の野菜が積まれたワゴンが、よそのテーブルの横につけられていた。それが邪魔をして先に進めない。
 まるで茶の作務衣に着せられているみたいだ。小さな女の子店員が、トングを持ってこくこくと頷いている。
「それからえのきとぉ、豆腐とぉ、あと葱とぉ、しいたけも盛ってください。 あ、忘れるとこだった。肉二皿とビール一本も追加で」
 はい。はい。はい。
 返事はしているものの、ちゃんと覚えているのだろうか。おぼつかない手つきで空き皿に置かれていく野菜たち。
 テーブルの客達は女の子店員の存在をすでに忘れているかのよう。ひとりが言ったことに、それそれがあーと頷く。
「すみません」
 声をかけると、トングを持った女の子店員の手がビクリ。
「通れなくて」
「あっ、あ、すみま…」
 二つに結んでいる染めた気配のない髪が、下方に垂れた。ワゴンをさっとどけてくれる。
「申し訳ありませんでした」
 恐縮そうにもう一度頭をさげるので、いえいえと笑って先に進んだ。
 手洗いは会計の左を行ったところ。教わった通りに行くと、会計前の椅子には席が空くのを待つ客の姿があった。椅子では足りず、立って待っている客も。
 この店に来て五分も経っていない。まったく待たされずに席へ通された私たちは運がいい。
 ビルの八階すべてがこの食べ放題屋になっている。牛肉特有のにおいと客たちの声で、店内は賑やかに満ちていた。
 空席を待つ客たちがいらだちも見せずに穏やかなのは、明日が休みだからだろうか。慣れていない店員に通路を妨害された誰かが穏やかなのは、そうなのだろう。
 金曜の夜は気持ちが弾む。


 窓際のカウンター席もやはり満杯。ガラスの向こうにはデパートの建物が見えていた。デパートの窓から、あちこちのビルから、歩道から、日本一の繁華街のネオンから。うるさすぎる明かりが、ガラスをすり抜けてやってくる。落ち着いた雰囲気を出そうと店内の照明を暗くしているらしいが、意味がなかった。
 私たちが陣取っているのはカウンター席の手前。仕切りのある四角いテーブルだった。戻ってみるとテーブルの真ん中にすき焼き用の鍋がすでに用意されていた。
 ごつりとした森下さんの手が、割り下の入った注器に伸びようとしている。でも肉や野菜はまだ来ていない。生ビールも。
 森下さんの向かいに座っている深雪ちゃんが、長い髪を耳にかけながら言う。
「すみませーん。森下さんにやらせちゃって」
「あ? 別にいいよ」
 一瞥しただけ。鍋にじょじょじょと注がれていく黒茶色。
 深雪ちゃんは私の三つ後輩だ。入社当初、森下さんのことをいい! とロッカールームで興奮気味に話していたのをいまだに覚えている。この深雪ちゃん、合コンで知り合った彼とつい最近別れたらしい。けれどさみしい気配などまったく感じさせない彼女はいま、向かいの人をうつむき加減で見ていた。
 あつい。
 森下さんがひとりつぶやいて上着を脱いだ。たたまれもせずにビニールレザーの長椅子に置かれたジャケットは、ダークグレー。
 きっちり髪をセットしてくる日もあれば、寝坊したのかそうでない日もある。今日は後者だった。長くなった前髪が入りそうになって、森下さんは目をしばしばさせている。
 なんだか子供っぽい仕草、というか雰囲気。
 そういうところが女子社員にウケるのかなと思う。よく分からない。べつだん顔がいいわけではないし、話が面白いわけでも、よく気を使ってくれる優しい人というわけでもない。むしろつっけんどん。でも仕事はすごく出来る人だ。いまは係長だけど、課長になるのもそう遠くない気がする。
 それにしても若いよなあと思いながら深雪ちゃんの隣に腰かける。
 森下さんとはじめて会った時は同期の新入社員だと思ったくらいだ。この人が私より六つ上の三十六歳だなんて。見えない。
 しかも離婚歴があり、別れた奥さんとの間に中学生の子供も一人いるだなんて。
「すっげえ腹減った。先にタレ作ってあっためとく」
 今度は森下さん、テーブルの横に手を伸ばして電気コンロの温度を調節し始めた。
「すき焼きはまず肉焼いてからタレいれるって、森下さん前、そうやってませんでした?」と、小池くん。深雪ちゃんと同期だ。
「あ? いいよ。たかだか千五百円で食い放題の肉に。煮えたらすぐに食いたくない?」
 割り下の次は水だ。ちょろろ、ちょろろと鍋に注がれていく。
 かき混ぜた箸をそのまま口に持っていき、森下さんが舌をぺちゃぺちゃいわせて味見する。
 まあこんなもんかな。と、ひとりごちてすぐ。今度は小池くんが口をひらいた。
「あの、森下さん?」
 そして細長い黒ぶち眼鏡を指でさすりあげる。
「ちょっと俺、聞いちゃったんすけど。いいすか?」
「はい?」
 鍋奉行の森下さん、またもや体をひねってテーブルの横に手を伸ばしている。コンロの温度が気になってしょうがないらしい。
 温度には満足したのかしないのか。とりあえず鍋に蓋をし、疲れた様子で席に居直り、置いてあったビニール袋入りのおしぼりを手にしたところまで待って、眼鏡くんが言った。
「森下さん、二課の久我さつきと結婚するってマジすか?」
 ビリリ。ではなく、ぱふゅぅん、だった。
 森下さんによって破かれたビニール袋の音。
 えっ。と声を出すすんでのところで私はこらえた。唇が少しひらいたところで。
 真向かいに座っている眼鏡くんを注視していて、その隣の森下さんはぼんやりとしか見えなかった。
 一瞬、止まっていたような手。その手が、ビニール袋から白いおしぼりを取り出そうとしていたのは分かった。
 一拍おいて深雪ちゃんの声が聞こえた。うそ、と。
 ぎゅうっとビニール袋が引きちぎられ、白いおしぼりが森下さんのごつごつした手を包んでいく。
「それ、誰から聞いたの?」
 手をぬぐいながら森下さんが不機嫌そうな声。その視線の先は、ひたすら自分の手とおしぼり。
「や、俺、出勤してすぐ下痢しちゃって便所にこもってたんすよー」
 飲食店にいるにもかかわらず眼鏡くんは陽気に語る。
「そしたら誰か入ってきて。声聞くとうちの課長と二課の中村課長っぽいから。で、そこで二人が話してるの聞いちゃったんすよねー」
 うちの課長と二課の中村課長。
 そのあたりから森下さんはあーあと顔をしかめていた。
「ってマジっすか? や、でもマジなんすよねえ? 課長同士が便所で密談してるくらいだから」
 眼鏡くんはこの手の話が好きだなと頭の片隅で思いつつ、ちらりと森下さんを見つめる。私はなぜかこの人のことを正面から堂々と見ることができない。いつもちらり。
 テーブルに、白いおしぼりが置かれた。
 森下さんが観念したように頷く。
「いつか分かることだしな」
 他人の浮いた話にいつも興味なさそうにしていた人の顔が、少し赤らんだ。
 そこで偶然、その人と私の目が合ってしまう。
 どういう顔をしていいか一瞬困り、とりあえず笑顔をつくる。そして返された控えめな笑顔に動揺してしまう。
 女子ロッカールームで、森下さんをいい! と言っていた隣の子の存在を忘れてしまうくらいに。
「久我さつきって新人、や、二年目か。だったらいま二十三とか四? ですよねぇ? や、失礼な言い方だったらすみません。森下さんとはひと回りも歳はなれてるじゃないすか。やー、なんかそれ、すげぇっていうか。でも羨ましいっすよ! あの子結構人気あるんすよー。なんかこう清楚な感じがいいって」
 久我さつき。
 名前を聞いただけではすぐに顔が浮かばなかった。けれど眼鏡くんのあげたキーワードでああ、と思う。
 となりの二課。二年目。そして清楚。
 あの子か。いつもにこにこしていて、長い髪をきゅっとまとめてる子。
「正直言って俺、やっぱすげえ驚きました。あの子と森下さんが付き合ってたっていうのもそうだけど、結婚て。結婚する、っていうのが。やー、森下さんて恋愛はもういいってオーラ出してて、失礼すけど、そういうのとは縁遠いと思ってたんすよね。やー、でも! めでたいっすね! おめでとうございます!」
 みんなで乾杯しましょう! ビールはやく来ないかなあ。
 無邪気に通路に目をやる眼鏡くんを、私は小さく笑って見ていた。よくそこまで喋れるなあ。こわいもの知らずだなあ。と思いながら。
 けれど私が思ったことをほとんど代弁してくれた。
「私もいま聞いて。びっくりしてます。でもほんとに、おめでとうございます」
 何か言わなければと思って私も祝福を述べたけれど、洒落た言葉が出てこなかった。出てきたのはただ、ありきたりの言葉。眼鏡くんのあとだったせいもあり、抑揚のなさが妙に目立ってしまった。
 わずかな沈黙のあと
「あー、うん」
 森下さんは照れ笑いを浮かべた。そしてめずらしく頭をさげてきた。ありがとうと。
「もし森下さんが芸能人だったら、明日あたりスポニチに"電撃"の文字躍ってますよ。で、すぐそばに妊娠三ヶ月とか載ってたりして。いま当たり前に横にガツンと妊娠の文字がくっ付いてるじゃないすか」
 そこんとこはどうなんすかぁ?
 面白半分にニヤニヤ笑った眼鏡くんが問いかける。それに便乗して私もえいやっと口をひらいた。できるだけ笑顔で。
「どうなんですかー?」
「や、どうって言われても」
 森下さんが困ったように息をついた。うつむいた時に前髪がまた入りそうになったのか、目をしばしばさせている。
「まあそれも。いずれ分かることだから言うけど」
 そう。いま五ヶ月。
「げっ」
 間髪いれずに耳に入ってきた深雪ちゃんの反応。げっ。
 深雪ちゃんにすれば、それが率直な気持ちなのだろう。
 続けざまに大声が食べ放題屋に響く。
「マジすかぁっ?」
 窓際のカウンター席に座っていたサラリーマン二人組が振り返り、眼鏡くんを一瞥した。
「なにやっちゃってんすかぁ。森下さんはぁ」
 仮にも上司。それなのに遠慮がない。
「失敗しちゃってぇー」
 やっちゃったなぁという顔をしている眼鏡くんの後方に、茶の作務衣が見えた。生ビールの入ったジョッキが、右手左手にそれぞれ二つずつ。
 持って来たのは、あの小さな女の子店員だった。

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