HOME | SHORT NOVEL | BACK


[後編]

 それは一体どうしたことか。
 ご飯を食べながらじっくり話を聞きたいところだけど、もう帰ると千鶴が言う。いまの旦那さんが家で待っているとか。
  それなら仕方がない。というか一応私も嫁の立場。早く帰ってご飯を作らなければ。勝手に、千鶴とどこかの店でご飯を食べるつもりでいた。わが夫の胃袋はコンビニかどこかで満たしてもらうつもりで。
 まっすぐ帰るならわざわざここまで来てもらわず、駅で待ち合わせすればよかった。借金がどうだからとか関係なく。
「ケンちゃん、もうずっと前に仕事やめてたんだ」
 新宿駅に向かって歩きながら千鶴が言う。いつもと同じおだやかな口調。
 ケンちゃんとはいまの旦那さん。確か三つ年下。紹介された時はビジネスホテルでフロントの仕事をしていると言っていた。
「ホテルの仕事って時間が不規則でね。家帰って来てもケンちゃん、ただ寝てるだけでさ。二人の時間なんてほっとんどなくて。その時は入籍したばっかりだったし。なんかねぇ? ほら、くっついてたい時期だったから。それでもうやんなっちゃって。ホテルの仕事やめて、違う仕事してくれって頼んだんだ。わたしが」
「千鶴が」
「そう。土日休めて、朝出勤して夜帰ってくるような、普通の仕事にしてほしいって」
「それで旦那さん」
「うん、やめたんだ」
「そうだったんだ」
 そっかそっかぁ。と私がうなずいたあと、二人とも無言になった。
 横断歩道を渡り終えてもまた左手には高層のオフィスビル。きっちり並列して灯されている窓明かり。
 千鶴と一緒にこういう場所を歩くのは変な感じがする。しかも二人ともちゃんと、仕事の格好をして。
「じゃあ、いまはまだ、就職見つかってないってことでしょ?」
 うん、まあ、そうなんだけど。
 言いながら、千鶴は不満そうな顔。
「仕事やめてもしばらく失業保険入るからさ。それなくなるまでに新しいとこ見つけてくれればいいやって思ってたんだ。ホテルの仕事大変だったし、お疲れ様って意味もあって。まあ…」
 わたしが仕事やめろって言った手前、早く決めろってうるさく言えなくてね。
 千鶴の言葉に、思わずあー、と声をあげた。
「まあ、そうかもしれないねぇ」
「そうだったんだよ」
 その時はね。と自嘲気味に千鶴が笑う。
「はじめは良かったんだ。いっつも一緒にいれて嬉しかったし。失業保険、給料より少ないとはいっても貯金もまあ、少しは残ってたし」
「んー、でもそれだと」
 私がその先を言おうとしたところを、千鶴が遮った。
「うん、そう。お金ってあっという間になくなっちゃうもんだね。大丈夫だろって思ってたのが、すぐに貯金もやばくなっちゃって。あのさ。ミカちゃんだから言うんだけど……お金、足りなくなって消費者金融から借りちゃったんだ」
 消費者金融。
 そこで、あからさまに嫌な顔をしてしまった。
 もうやっばいよねぇ。と千鶴が私を見て苦笑い。
「さすがに何とかしなきゃ、って思ってわたし、派遣に登録してさ。少し事情説明したらいい仕事紹介してもらえたんだ」
「それで赤坂に」
「そう。給料そこそこいい分、大変だけどねぇ」
 隣から、はあぁと深い溜息。
 まとめ髪からほどけている千鶴の後れ毛がずっと気になっていた。顔も服も、仕事仕様できっちりしている。なのに髪だけ。その少しの後れ毛だけが、たゆんでいて。
 疲れをさらしているようだった。
「ケンちゃんさ。失業保険切れそうになっても、仕事真剣に探してくれなかったんだわ」
「はあっ?」
 これにはさすがに、私も声を荒げてしまった。
「ちょい待て。ハローワークとか行ってないわけ?」
「そうなんだよー!」
 千鶴もいらだってきたらしい。いつものおだやかな口調ではなくなっている。
「一応パソコンで求人募集見てたみたいだけどさぁ。でも、履歴書持って面接行ったりすることなんか、まるでなし」
「…おーい」
 これは。何か嫌な感じ。
 前のマザコン亭主に続き、現在の旦那さんも難ありらしい。
「いまなんかもう失業保険とっくに終わったからさ。私も遠慮しないで、早く働け働け言ってるけどね」
「うん、言いな言いなぁ? 言う時は言わないと!」
「そうだよね。言っちゃってもいいよね?」
「やー、だってちょっとおかしいもん。それで旦那さん何て?」
「いや、そのうち見つけるとは言ってるけど」
「…旦那さん、仕事しないでいま何やってるの?」
「まあ掃除とかは少ししてくれるけどさぁ」
「けど?」
「ずっと家のパソコンでネットしてる。ずーっとだよ。だけど就職のページ見てる感じじゃないんだよね」
 何やってんだろう。と呟いて、千鶴がもう一度溜息をついた。
 西新宿の街をだいぶ歩いた。待ち合わせしたアイランドタワーは、はるか後方。
 あの赤いオブジェも。
 LOVEの文字は今もささやかにライトアップされているはず。夜の中で綺麗に。けれど少しさみしげに。



 妻は家計のために頑張って働いている。なのに夫は、家にこもって一日中インターネット。
 ただのヒモではないか。
 よく耐えていると思う。私だったら無理だ。
 新宿駅で千鶴と別れてからも、そのヒモ亭主のことばかり考えていた。ひとのことながらそればかり。
 消費者金融への借金はいまのところ無理なく返せていると聞いて、それだけはホッとした。
 家に帰ったら真っ暗で、夫のいる気配はなかった。電話もメールも来ていない。いつもなら必ず、何時に帰ると連絡があるのに。
 今朝の言い争いに加え、私の「ハゲ」発言のせい。怒っているのだ。
 それでも寄り道したり外で食べたりすることはせず、まっすぐ家に来るはず。いままでの経験上。そういう人だ。
 いつ帰ってくるか分からなくても、ご飯の支度をしなくては。
 部屋着にきがえ、中途半端な長さの髪をピンで留める。キッチンに行って冷蔵庫をあけた。
 ろくなものが入っていない。日曜にスーパーでまとめ買いしてきた食料も、少なくなっている。週末に近づくとスカスカになるわが家の冷蔵庫。
 賞味期限が今日までになっている豚バラ肉がある。とりあえずそれを取り出して、残っていた茄子も二本出す。
 茄子を軽く洗い、白いまな板の上におく。ぴかぴかの紫にくっついている無数の水滴。
 へたの部分を包丁でざっくりとやった。
 嫌になんない? 別れちゃえば? と提案したら、千鶴は首を横にふった。二度の離婚に躊躇しているからではなく、単純に、まだ彼が好きだからと。働かないで家でパソコンばかりしているけれど、やっぱりわたしには誰よりもやさしい人だからと。いつか就職を見つけて、働いてくれるのを信じているからと。
 それでいいのかと思いつつ、そういうものなのだろうとも思う。
 たとえどんな面があったとしても。結局、自分の男が誰よりも何よりも一番いい。
 引き続きざくざくと茄子を切っていく。二本とも短冊切りにし、続いては豚バラ肉。食べやすい大きさに切り、フライパンで炒めていく。
 湯気がぶわりとあがると同時に、豚肉のあまい香り。茄子も入れてしんなりするまで炒めたら、砂糖にしょうゆ、みりん、味噌を投入。
 ついでに生姜を入れようと冷蔵庫をあさっていた時だった。玄関から、ガチャガチャ鍵をあける音。ドアがひらく音。
 夫が帰ってきた。
 はぁーあと溜息をこぼしているのが聞こえてくる。廊下をふむ足音も。
 キッチンとつながっているリビングに、ぬっと夫の姿があらわれた。夜になっても髪のセットは完璧。
 むすっとした顔と目が合う。
 これは。まだ怒っている。
「お帰りなさい」
 こわごわ話しかけると、夫が軽くうなずいた。すげえいい匂いする、とボソリ。
「メシ、できてるの?」
「や。もうちょっとかかる」
「もうちょっと? じゃあ俺先にシャワーあびてくっかな」
「いいよ、あびてきて」
「あそう。じゃあ行ってくるわ」
 まわれ右して風呂場へ向かった夫が、廊下で声をあげた。
 あぁ腹減ったぁ。
 
 
 仕上げに生姜を入れた、茄子と豚肉の味噌炒め。急いで作ったレタスとトマトだけのサラダ。昨日の味噌汁。朝炊いて残っていた白いご飯。スーパーで買った白菜の浅漬け。それらをダイニングテーブルに並べていく。
 食卓はいつもこんなものだ。主菜を一品どんと出して、あとは適当。サラダや残り物をちょこちょこ並べるだけ。仕事から疲れて帰ってきて、何品も作るなんて出来ない。言い訳だけど。
 つめたい麦茶と箸も並べて準備万端。あとは食べるだけとなって、夫がタイミングよくあらわれた。シャワーをあびたのが効いてか、すっきりした顔をして。
「いやぁさっぱりしたわぁ」
 もう機嫌もなおっているらしい。
 肩にバスタオルをひっかけて登場した夫は、半そでTシャツにトランクス姿。家ではだいたいこんな格好。いつもズボンをはけと注意するのだが、今日はやめておいた。
 朝あれだけ念入りにセットした髪も、シャワーをあびるとぺしゃんこになってしまう。少々うすくなったおでこが目立ってしまう。
 それもたまに茶化したりするのだが、やめておいた。
 ダイニングテーブルをのぞきこんで夫が言う。
「あーこの肉のやつ、うまそうだなぁ。いい匂いするのこれかぁ」
「…簡単なものしか作れなくて、ごめんね」
「いや? 全然? これで充分満足よ」
 どかっと席につき、いただきまーすと元気に箸を手にとる夫。茄子と豚肉の味噌炒めが、大きな口の中に入っていく。
 あっ、うまい。生姜がいいね。
 食べながら喋りながら、白いご飯を口にかっ込む夫。
 相変わらずすごい勢いで食べるなぁと思いながら、私も箸をとる。茄子と豚肉の味噌炒め。あんなにぴかぴかと紫色をしていた茄子は、火を通され、調味料で味付けされ、くったりと茶色になっていた。豚肉と変わらない色に。大皿から、ほのかにたちのぼる湯気。
 そのとおり、生姜が効いていて美味しい。つくりたてだから余計。
 うまいうまいとご飯をかっ込む夫を見て、あのうと言ってみた。
「今朝はご心配おかけしましたが、千鶴からちゃんとお金、帰ってきましたので…」
「へぇ」
 食事の手を休めずに夫が言った。よかったじゃん。
「うん。私もほっとした」
「何、今朝の今日で早かったじゃん」
「そうなんだぁ。仕事帰り、千鶴がわざわざ私んところの近くまで来てくれてさぁ」
「へぇ。まあ、返ってきてよかったな」
 私が貸したお金に対して、夫はさほど心配はしていなかったらしい。額もたいしたことなければ、自分達の生活費から出たものではないから。
 たとえ戻ってこなくても、安易に貸した私が悪いと。それもいい勉強だと。
 けれど。
 旦那さんの代わりに千鶴が働きに出ていること、お金に困って消費者金融から借金してしまったこと、仕事を探す様子もない旦那さんが家でパソコンばかりしていることなどを話すと、さすがに驚いた様子。ええっ? まじで? と目を真ん丸くした。
「いやぁ…。すげえな、千鶴って人。前の旦那はマザコンでいまのはヒモってか。いやぁ…怒涛の結婚人生だね」
 いやぁすごい、ともう一度呟きながら夫が席を立つ。もう空っぽになってしまった茶碗を持って、キッチンへ。
 夫はいつもご飯のおかわりを自分で足しにいく。
「っていうか男運がないんだろうなぁ。男見る目がないっていうか。かわいそうな気がするけど」
 まぁその千鶴って人がやさしいから、男の方も甘えちまうんだろうなぁ。
 ご飯を茶碗によそおいながらの夫の発言に、私はうなずいた。うなずかずにはいられなかった。
「そう、だねぇ」
 おかわりのご飯も朝に炊いた残り。それをこんもりと茶碗に盛って、夫が席に戻ってきた。ふたたび、すばらしい勢いで食べ物を口にしていく。口にしながら夫が喋る。
「お前の友達って、そういうの多くないか?」
「え?」
「旦那が浮気したとか、また違う旦那は、腹立つと殴ってくるとかさぁ」
「ああ、そうだっけ?」
 天井を見上げて考えてみる。
 いろんな友達がいて、いろんな話を聞く。確かにそういう旦那さんを持つ友達はいて、そのことを夫に報告したりはしていた。
 なぁミカ。
 名前を呼ばれて夫に顔を向ける。
 私を見て、にやにや笑っていた。
「俺にしといてよかったろ?」
 自信たっぷりに言われて、何だこいつと思う。
 視線をわずか上にずらせば、シャワーでぺしゃんこになった短い髪。
「俺、普通だから」
「……」
 ぶっと笑ってしまった。
 確かに、夫はマザコンでもなければヒモでもなく、浮気も(たぶん)しなければ、暴力も振るわない。まあ普通の人だ。
 ちょっと小言がうるさいけれど、それは私を思ってのこと。私を、大事にしてくれているから。ふだんはやさしい。
 だけど。
 また容赦なくバカだの何だの言われたら、「ハゲ」と吐き捨ててしまうかもしれない。
「そうだね。あんたでよかった」
 笑いながら、大皿に盛った茄子と豚肉の味噌炒めに箸をのばしてみる。
 ところが半分もなかった。結構多めに作ったはずなのに、茄子も豚肉もあとわずか。大皿には、油と混ざってどろりとした茶色い汁が目立っている。点々と浮かんでいる黄色は、すりおろした生姜のかけら。
 夫は二杯目のごはん茶碗を手に、がつがつと食べ物を口に運んでいる。食欲がおさまる気配はない。
 早く食べないと自分の分がなくなる。
 私は急いで味噌炒めを口に入れた。

 「終」
 2008.9

HOME | SHORT NOVEL | BACK
copyright(C) ODAGIRI SUNAO