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我がオトコ
[前編]

「いきなりなんだけど。五万円貸して欲しいんだ」
 と千鶴に電話で頼まれたのは半年も前のこと。本当に必要だったらしく、了解したら即座に携帯メールで銀行の口座番号を知らせてきた。
 千鶴は親友だし、まあ五万だし、と安易に振り込んだお金。ところがそれが返ってこない。千鶴からは電話も来なければメールも送られてこない。返金をそれとなく催促しつつ、元気でいるかメールをしたら返信が素っ気ない。
 これはやばいかもと思った。
「千鶴に五万貸したんだけどさ。まだ返してくれないんだよね」
 今朝になり、はじめてこのことを夫に知らせてみたら、案の定
「それ、やばいんじゃないの?」
 という反応。
 スーツOK。メイクも髪もOK。私のほうはいつでも家を出て会社に行けるのに夫はまだ。洗面所で、髪につけるワックスの蓋をあけている。
「その千鶴ってあの人? お前の、高校の友達の」
 夫は千鶴と一度しか会ったことがない。私達の結婚披露宴の時にちらっとだけ。けれど何度も彼女のことは話してあった。
「そう。離婚してすぐ再婚した」
「前の旦那がどうしようもないマザコンで、それ嫌になって、男つくって別れちゃった人な?」
「そう」
 さすがに覚えてくれている。離婚してすぐ再婚。いろいろあった私の友人のことを。まあ当時、私が興奮してまくしたてていたせいもあるけれど。
 洗面所の鏡越しに夫を見る。
 短い髪を一生懸命ワックスでもって逆立てていた。
「ふぅん。その人に金貸したの」
「そうなんだけどねぇ。一応メールでそれとなく、返してくれるように送ったんだけど。返事が素っ気ないっていうか」
「どう素っ気ないの」
「なんかね。今はちょっと忙しいから、返す時に連絡するって。なんとなく濁された感じの返事だったんだよね」
 鏡の中の夫は、いぶかしげな顔。
「金いつ貸したの」
「半年くらい前」
「半年ぃ?」
 首をかしげつつ、それでも髪をセットし続ける夫が続けた。
 大丈夫か? その千鶴って人。
「お前、借用書とか渡してあんの?」
「や、そんなの。たった五万だし。それに銀行のATMで振り込んだだけだし」
「じゃあ領収書は? ATMで送金すると機械から紙出てくるでしょ。ちゃんと保管してある? 証拠として」
 責めるように言われて口を閉じるしかなかった。
 保管してない。どこかにいってしまった。
 というか、おそらくもうとっくにゴミとして燃やされている。
 無言になった私を見て、夫が溜息をついた。
「とっとけよぉ。バッカだなぁお前。金返して欲しくてよこせって言っても、向こうがしらばっくれたら戻ってこねえぞ? ほんと抜けてるよな、そういうとこ」
 遠慮もなしにバカだの抜けてるだの言われ、とたんにムカついてくる。
「一応通帳には送金したこと載ってますっ」
「あっそう」
「それに、千鶴はしらばっくれたりするような人じゃありませんっ。ちゃんとお金返してくれますっ」
 鏡に、むくれた顔の私が写っている。その顔を夫がぎろりと睨みつけた。
「そう思うんなら、金返ってこなくて困ったからって俺にわざわざ言ってくんな。ボケっ」
 今度はボケぇ?
 ちょっと相談してみただけなのに、この言われよう。
 思いきり気分が悪くなった。
「分かりましたっ! もうあんたには言いませんからっ!」
 いつも一緒に家を出て会社に行くけれど、今朝はそんな気になれない。さっと自分のカバンを持ち、玄関までドカドカ移動した。
「ちょっとぉ! 何だよ! 先に行くのかよっ」
 足音を聞きつけたのか、洗面所から夫の叫び声。それを無視して黒のパンプスに足をとおす。
「何を怒ってんだ心配してやってんのに。ほんっと可愛くないな。すぐカッとして。ガキだな」
 さらにやかましいのが後方から聞こえてきた。
 ブツブツ言いながら、夫はいまだに髪をセットしているはず。生え際が若干さみしくなってきたのを気にしてか、最近やたらとセットに時間をかけている。
「おい。貸した金ってお前の貯金からなんだろうな? まぁさか俺らの生活費の中からじゃないだろうな」
 何を偉そうに。
 文句を言いながら一生懸命髪をセットしている姿を想像すると、本当に腹立たしい。
「私の貯金からに決まってるでしょっ!」
 乱暴に玄関のドアをあけ、出て行く間際にこう言ってやった。

 このハゲが!


 夫の言い分はもっともで、安易にお金を貸した私が悪いのは分かっている。今朝のことなんか完全に私の逆ギレだということも。
 だけどあんな言い方はない。
 いつもそうだ。私が何かまずいことをするとバカ呼ばわりで小言。そして昔の失敗まで掘り起こしてきてまた小言。
 大丈夫だろ。とただ言って欲しかっただけだ。ちょっとでもいいから、不安を取り除いて欲しかっただけ。お金が返ってこないかもしれないという不安を。千鶴がそんな人じゃないと思いたかった。
 なのにあんな言い方。
「あーちくしょう。腹タツノリだぜ」
 何人かが乗っていたエレベーターの中。ぼそっと呟いたのを、一緒にいた後輩の女の子に聞かれてしまった。
「へっ? 原辰則?」
 ぽかんとしている彼女に、何でもないよと笑いかける。
 やばいやばい。オヤジみたいな駄洒落をかましてしまうとは。
 会社が入っているビルのコンビニで、昼ご飯を買ってきたところだった。目的の階についてエレベーターをおりる。この階に限っては、すべてうちの会社のスペース。
 昼ご飯を持ってそのまま後輩と休憩所に行こうとしたところ。デスクがずらりと並ぶ方面から、声をかけられた。
「サカタさぁーん!」
 振り向くと、派遣社員の女の子。
「あのぉ。机に携帯忘れてますよ。さっきメールも来てたみたいです」
「あっ、ありがとー」
 いそいそと自分のデスクに向かう。
 確かに私の携帯電話があった。沖縄限定キューピーのストラップ付き。
 言われたとおりメールが来ていた。ランプが点滅している。
 教えてくれた派遣社員が、斜め向かいのデスクから身を乗り出した。
「サカタさんて、メールの受信音『笑点』のテーマなんですね」
「ああ、うん」
 私は返事をしつつも携帯電話を操作する。メールを読むためだ。
 そこで派遣社員がクッと笑った。
「サカタさん携帯マナーモードにしてないから、メール来た時『笑点』めっちゃ鳴り響いてましたよ」
 まわりのみなさん大ウケでした。

 いま、このデスクのあたりは、みな外に出ていてほとんどいない。
 メールは千鶴からだった。


 返金したいから夕方会ってほしいとの文面を見た時、心からほっとした。やっぱり千鶴はそんな人じゃなかった。
 ざまみろ夫と思ったが、疑っていたのは私も一緒。ここは素直に千鶴にあやまろう。心の中で。
 さらに千鶴は職場の近くまで来てくれるという。
 専業主婦の彼女は神奈川の大和市に住んでいる。そこから私がいる西新宿まで来てもらうのは申し訳ない気がするけれど、助かる。まあ私がお金を貸してあげたのだから、それでいいのかもしれない。
 待ち合わせは六時半に新宿アイランドタワー。赤いLOVEのオブジェ付近。昔ヒットしたドラマでも待ち合わせ場所として登場したところだ。
 けれどオブジェのまん前で待っているのは目立ちそうで恥ずかしい。だから私は横断歩道そばの柱の横に立っていた。
 つい最近まで嫌になるくらい蒸し暑かったのに、夜はだいぶ過ごしやすい。半そででは寒いくらいだ。実際いまジャケットを羽織ってちょうどいいくらい。
 九月の中旬となると陽が落ちるのも早い。六時半の西新宿はすでに夜の景色だった。超高層ビル郡の窓から見える明かりや、通りを走る車のライトのおかげで、さみしさはない。歩道を歩く人がそう多くなくても。
 赤いLOVEのオブジェが、下からささやかにライトアップされていて綺麗。
「ミカちゃん」
 うしろから呼ばれて振り返り、え? と思う。
 白いシャツに黒のパンツを着た女性。いずれも体のラインにそったデザインで、洗練されて見える。長い髪はきゅっとひとつにまとまっていた。
 一瞬誰かと思った。でも確かに千鶴だった。
 彼女はふだん、こういう格好をしない。ふんわりしたシルエットの服が好み。ベージュや白といったナチュラルな色のものばかり着ていた。髪も常におろしていたし、メイクなんかほとんどしていなかった。
 けれど目の前にいる千鶴は、ザ・OLだった。顔がきりっとしている。最後に会った時よりなんだかやせて見える。
「ごめんねぇ、ほんとに。返すの遅くなって」
 ギャザーの入った黒いカバンから茶封筒が出てきた。
 これ、借りてた五万円。本当にありがとうね。
「一応、中確認してみて」
「あ、うん」
 もたもたと茶封筒をあけてお札を数える。
 ちゃんと五万入っていた。
「確かに、受け取りました」
 茶封筒を自分のカバンにしまい、すっと顔をあげた。
 超高層ビル郡の明かりで見るには困らないといっても、いまは夜。それでもしっかり見える千鶴のアイライン。マスカラまつ毛。
「ねぇ、どうしたのその格好」
 聞かずにはいられなかった。
「働いてるの?」
 千鶴が困ったように笑った。
「うん、そうなんだ。赤坂で派遣としてね。だいぶたつよ」
「へぇぇ」
 知らなかった。
 それよりも意外だった。
 前のマザコン亭主の時も専業主婦。再婚した時も働きに出ないと言っていたのに。
 千鶴はもともと家のことをするのが大好きで、その完璧さに訪問するたびいつも感服させられた。部屋の隅や台の上に埃もない、美しい部屋。センスある小物やランチョンマット類はほとんど手作り。自分が夫だったら泣いて喜ぶだろうおいしい料理。洗濯物もきっちり等間隔に並べて干してあった。これは芸術か? と思うほど。
 千鶴の家をわが夫に見せたら、ボロクソにけなされそうだ。あまりにもお前はひどいと。
 その、家のことをするのが何よりも大好きな千鶴が、どうして働きに出ているのか。
 神奈川だったらパート仕事もたくさんあるのに、わざわざ都内に来るくらいだ。派遣といってもおそらく私と変わらないフルタイム労働だろう。
「でもなんで働きに出てるの?」
 疑問を素直に尋ねてみると、千鶴はまた困った顔をする。
 横断歩道が赤になると、しばらくして車が走り出した。ヘッドライトが流れるとともに、タイヤが地面をすべる音。
 まとめ髪からほどけた千鶴の後れ毛が、揺れている。車が通り過ぎるたびにふわふわと。
 お金に困っちゃって。と千鶴が観念したように続けた。
「うちの旦那、働いてくれないんだぁ」

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