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春に帰る

 年賀ハガキは四十枚買った。
 会社の連中にまず書いて、次が大学や高校の先輩に。そいで残ったのを後輩と、年賀状だけ熱心にくれる友人に。
 あいつにも出すかこいつにも出すかとなると軽く四十枚オーバーしてしまう。こんなもんだろうと買ってきた四十枚をオーバー。俺って親しくしてる奴が意外に多いんだねと感心したのはちょいとばかりで、まっさらな年賀状にすぐウンザリしてしまった。めんどくせえと。これを四十枚もつくるのかと。
 そんなわけで特に親しくしてる奴やよく電話してる奴には出さなかった。
 ところがその、特に親しくしてる奴らっていうのが律儀だった。奴らからは元旦きっかりに年賀状が届いてしまった。
 そうなると返事を出さないわけにはいかない。
 スウェット姿でコンビニに年賀ハガキを買いに行き、文面をつくろうとしてつい、テレビに見入ってしまった。
 チャンネルをまわすと、お笑い芸人の顔、顔、顔。目立つのはギターを弾きながら歌っている着物の男。こいつは、他のチャンネルに出ているのをついさっきも目にしたばかり。



 テレビの音とともにドアホンが鳴る。それもピンポンピンポンピンポンと何度も絶え間なく。
 目を覚ませばテーブルの脚。その向こうにブラウン管テレビ。
 流れていたのは記憶にあるドラマ。目を細めて俳優の顔を確認すれば田中邦衛。「北の国から」の再放送らしかった。
 ガチャガチャと玄関のドアノブがまわされているのが分かって、ああ恭子だと思う。二日の昼に行くからと大晦日に電話で告げられていた。
 光が窓のカーテンを突っ切って、部屋がこうこうと明るい。もしかして正午をまわっているのかと時計を見る。
 今度は目を細めても分からない。しょうがないので上半身だけおこし、テーブルにのっかっていた眼鏡をかける。
 正午の五分前だった。
 テーブルにはきのうの元旦に届いた年賀状。コンビニから帰ってすぐに書くはずだった年賀ハガキ。ポテトチップスの袋と空っぽの缶ビール二つ。
 テレビを見ているうちに眠くなってそのまま、ソファで横になってしまったのだ。
 散らかっているのはテーブルだけじゃなかった。部屋の床には脱ぎっぱなしのコートとジーンズ。整理しなきゃいけない書類の束。ずっとほったらかしのプレイステーション本体とソフトは埃まみれ。ほかにもいろんなもんが散らかっているのだけれど省略。
 すばやく起き上がろうにも体が痛くていけない。ソファで寝るといつもこうだ。しかもエアコンががんがんに効いていてものすごく暑い。寝汗をかいているうえ体がだるい。
 玄関の鍵があく音がしたあとに、恭子の大声。
正孝まさたか?」
 絶対怒るんだろなと覚悟を決めて白状する。
「わりぃ、いま起きたぁ!」
「はあっ?」
 迎えに行くから出かける準備しててって言ったじゃん!
 短い廊下を歩いて、恭子がこの部屋に乗り込もうとしている気配。なかなか姿勢を正せず、ソファに居座ったままドアが開くのを待つ。
 合鍵を右手に持った恭子が現れて、すぐに目が合った。
 今年はじめて見た彼女は小奇麗にまとまっていた。白いコートにグレイのプリーツスカート。いつものカーキ色のブルゾンとジーンズじゃあない。とれかかっていたはずのパーマはくっきり。唇はなんだか妙にテカテカしていた。
 不機嫌そうに口をとがらせている恭子の第一声は、明けましておめでとうじゃなかった。なにこれ! だった。
「きったない部屋! まえ掃除してから、そんな経ってないはずじゃない?」


 新年なんだから部屋をちゃんと綺麗にしろと叱られ、それからニ時間みっちり二人で掃除した。本当は恭子の車で横浜に行くつもりだったのに、結局パァ。掃除のあとは横浜には行かず、近くのファミレスで食事をとった。
「せっかくお洒落してきたのに、正孝のせいで台無し。あー! スカートになんか黒い、変なのがついてる。これ掃除してた時についたっぽいんですけど! しかもなんか油っぽいんですけど!」
 やあ、もお。これまだ二回しか着てないのに。クリーニング出したらとれるかなあ。
「いつものジーンズで来ればよかったじゃん」
「だってほんとは横浜行くつもりだったじゃない」
「じゃ掃除しなきゃよかったじゃん。あのあとすぐに出かけてれば今頃みなとみらいですよ?」
「あのきったない部屋をほっとけって言うの?」
「俺、ちゃんとあとで掃除したのに」
「はっ?」
「したした。ちゃんとしてた絶対」
「するか! いままで何回言ってもやらなかった人が!」
「してたって。今年の俺はちょっと違うんだ」
 そう言って鉄板のうえのハンバーグステーキを口に入れる。デミグラスソースが鉄板に固まりかけている。最後のひとかけらのハンバーグは、だいぶぬるくなってしまっていた。
 今年の俺はちょっと違うんだ。
 と、ほざいた誰かの格好は年季の入った紺のトレーナー。膝のところに穴があきそうなジーンズ。髭も剃らないで出てきた。
 ほうれん草色をした平べったいパスタをフォークに巻きつけながら、恭子が言う。
 ああ言えばこう言うよね。
「ウン?」
「正孝は、ほんとに自分のペースを崩さないよね。あたしがああしたほうがいい、こうしたほうがいい、って言っても適当にあしらうだけ。ほんとマイペース」
「んなことないじゃん。恭子が部屋を掃除したほうがいいよ? っつったらハイしますって従ってるじゃん」
「いや、全然やんないでしょう!」
「なに言ってるの。今日俺、綺麗にしたでしょ」
「そういうんじゃなくて。あたしがいなくても、ひとりでちゃんと掃除するんだよ? って言っても絶対やんないじゃん。あたしにきつく言われて仕方なく一緒にやるかって感じじゃん。何回言っても正孝は聞かないよね。ほんと、自分をとことん崩さないよね」
 いやだって疲れるんだもん。
「仕事やって、遅くに帰ってきてさぁ。それからうちのことあれこれやんなきゃって思うと体だけじゃなく頭もおかしくなっちゃうよ。休みの日は休みの日でのんびりしたいんだもん。いいんだ? もう、部屋なんて。俺っきゃいないんだから」
「じゃあ、あたしが一緒にいる時は?」
「ウン?」
「今日だって、あたしが正孝んちに来るって分かってるんだったら少し綺麗にしておこうとか、そういう風に考えないんですか?」
「ウン、考えるんですが」
「ですが?」
「その前にテレビを見たいとか、寝たいとか、俺もいろいろと忙しくて」
「忙しいぃ? テレビ見るのが忙しいことなんですか。寝るのが忙しいことなんですか」
「はい、忙しいよ? 俺にとってはすごく重要」
「ほんと。ああ言えばこう言う」
 ほうれん草色の平べったいパスタは、フォークに巻きつけられたまま。なかなか恭子の口には入っていかない。
「正孝は。あたしがいないと駄目だね。ひとりだとほんと駄目人間」
「ウン? そう、いい。俺は駄目人間でいい」
 去年とまったく違わない俺を、恭子が呆れ顔で見ている。
 ずり落ちた眼鏡を中指で戻しながら言った。
「恭子さんにはほんとーうに感謝してますよ? 恭子さんがいない俺はただの働くだけの男ですな。なんもないですよ。休みの日なんて掃除もせずごろっごろ寝てるだけの、つまんない人間でしたよきっと」
 夕方に近づいてぽちぽちと埋まってきたテーブル席。となりのテーブルに新客が現われた。派手なメイクのギャル軍団。やけに甘ったるい香り。
 つっけんどんに恭子が言う。
「ぜーんぜん感謝してるようには聞こえません!」
 ずっとフォークに巻きついていたほうれん草色のパスタが口に入れられた。鮭の入ったホワイトソースがからんだパスタ。
 ちゃんと掃除しろ綺麗にしろ。
 母親に叱られるかのように今年も過ごしていくんだろうかと頬づえをつく。さっきまで妙にテカテカだった向かいの唇を見つめながら。



 そのファミレスで一番高いデザートを注文してやったのは、予定をおじゃんにしてしまったせめてものお詫び。
 なんとなくおだやかになった恭子とマンションに戻り、ロビーに寄って郵便受けをのぞく。第二弾の年賀状が届いていた。今年は二日でも届く。
 外もマンションのロビーもおそろしく寒い。さみさみさみと震えながらエレベーターのボタンを押すと、幸運な事にすぐに開いた。
 ロビーよりも暖かいエレベーターに乗り込んで上っていく間、年賀状が誰から来たのかをチェックする。
 一枚がはらりと手からこぼれ落ち、恭子がしゃがんで取ってくれた。
「ああ、悪い」
 お礼もそこそこ。その年賀状に目をやれば、やけに汚い字。誰かに負けないくらいの汚い字。
 ひっくりかえして文面を見ると、印刷されたニワトリのイラストと2005の文字がまず目に入る。その下に、三行の文章。
『昨年は仕事が忙しくてエロDVDがあまり見れませんでした。今年は彼女と温泉に行ってゆっくりしたい』
 今年もよろしくなんて書かれていない、かなり個人的なメッセージ。まあそんなことはどうでもよくて、とにかく「エロDVD」にウケてしまった。恭子の横でフンと鼻を鳴らす。
「なあに?」
 興味津々とのぞきこんできた恭子に、その年賀状を見せつける。
 すぐに笑い声がエレベーターの箱の中で響いた。
「なにこれ、誰?」
「杉田っつって、地元の友達。高校の」
「地元の? あー、名前聞いたことある。いま名古屋にいるんだっけ」
「そうそう。ずっと地元にいて、去年の春に転職して名古屋行った奴」
「たまに電話もよこしてくるよね。この人」
「そう。電話くると長い奴な」
「うん」
 ほんと長いよね。と恭子が苦笑い。
「こいつ、去年もこんなの書いてよこしてきたんだよなぁ。エロDVDって」
 去年届いた年賀状を整理したのはつい最近。奴が書いてよこしたインパクトのある文章はしっかり覚えている。
『最近エロDVDを見すぎています。あまり借りてこないで節制します』
 仰いだら、エレベーターの階数表示は6となっていた。うちがある七階にすぐ到着して扉が開く。
 ふたたび冷気に覆われて、思わず口からこぼれる文句。
「東京のくせに、さみぃ」
 ジーンズのポケットをまさぐってドアの鍵を探していた時、エロDVDのことは頭から消えてしまっていた。
 
 
「ほら正孝、綺麗な部屋に戻ってくるのって気分いいでしょ? 癒されるでしょ?」
 満足気に恭子がよっこらせとソファに腰かけている。ファブリースをまんべんなく吹きかけたソファに。
 エアコンをつけたからすぐに暖かくなるのに、我慢できなかったらしい。勝手にベッドから羽毛布団を持ってきて、くるまっている。
 元旦を家族で過ごせたから今日は帰らないらしい。
「横浜には行けなかったけど、テレビで織田裕二が見れるからもういいの」
 ソファのうえで羽毛布団にくるまった恭子が言う。手にはいつのまにかテレビガイドがあった。
 そう言えば今日は九時から「踊る大捜査線」の映画版が放送される。
「織田裕二のやつ、一緒に見に行ったじゃん」
「面白かったからまた見るんだもーん。悪いけど今日のチャンネル権はあたしね! 正孝には文句言わせないからね!」
「あ、勝手に見れば? 俺は年賀状書いてるし」
「年賀状?」
 いまだにテーブルに置いたままになっている年賀ハガキを見た恭子が、眉をひそめる。
「……それ、掃除してた時も気になってたんだけど。返事の方だよね? まさかまだ全然書いて出してないってわけじゃないよね?」
「当たり前でしょ。これから書くのは返事のほう」
「だよねぇ。年が明けてから年賀状書きはじめるわけないよねぇ? 正孝くん」
 はははと笑って首を振る。
「ないないない」
 あぶなかったけど。三十日に急ピッチでつくりあげて、出したのは大晦日なんて言わないけど。
「あたしの年賀状、ちゃんと届いたよね?」
「届いてました。ありがとう今年もよろしく」
「……なんで正孝のはうちに届いてないの? 毎度のことながら」
「毎度のことながら恭子には出してねえもん。どうせいつもすぐ会えるでしょ」
 どうせいつもすぐ会えるでしょ。
 一拍おいてから恭子が口をあける。
「まあ、そうなんだけど」
 でもなんか、寂しいんだけど。


 テーブルには、プリンタでイラストを印刷されたハガキたち。
 気づいたのは、いつもどおり文面に何行かコメントを書いていた時だった。明石家さんまの番組を見て笑い声をあげていたのが、なぜか聞こえなくなったことに。
 テーブルからソファに視線を動かす。羽毛布団にくるまっていた恭子は、いつのまにか横になって目をつぶっていた。眠ってしまっていた。
 時刻を確認すると九時までまだ一時間もある。まあ、十分前になったら起こしゃあいい。そう思って立ち上がる。
 エアコンが効きすぎて暑かったからだ。顔が火照るし、頭もぼんやりし始めていた。恭子が眠ってしまったのはこのせいもあるのだろう。
 エアコンの温度を下げていたのと同時、テーブルに置いてあった携帯がぶるぶると震え始めた。着信音量をオフにしていたのでテーブルの摩擦音しか聞こえない。恭子はぴくりともしなかった。
 携帯の画面を見て相手を確認するなり、クッと笑ってしまう。
 杉田だった。例の、エロDVD。
「おう、明けましておめでとう」
 電話機を通じて聞こえる杉田の声は、妙に甲高い。
「おーおめでとう。杉田最近、エロビ見れてないんだって?」
 あっ? と言ったあと、杉田がうひゃひゃと笑った。
「年賀状届いたんだ? お前んとこに」
「今日届いたんだよね。お前の年賀状、彼女に見せたんだけどさあ、ウケてたぞ」
 エロDVD。
「はっ? ええ? マジで? やあ、あんなの彼女に見せんなや、恥ずかしいなあ」
「ちらっと見せただけだって」
「だってお前の彼女、潔癖症なんでしょう?」
「や、そっちのほうはそんなに潔癖でない。あれぐらいの文、俺の彼女なんも思わねえよ」
「そっちのほうはそんなに潔癖でないって、なにや。まあいいけどさあ……あ、てことはやっぱお前いま、東京いるんだ?」
「あー今年は帰んなかったわ。正月休み三日しかなくてさぁ。帰るってなったら移動に時間かかるし、金が飛ぶからバカらしくて。そいでやめた。実家には別の機会に帰るさ」
 はぁーん。と、相槌をうってるんだか悶えてるんだか分からない杉田の声。
「休み三日しかないって、お前、大晦日も働いてたの?」
「そう。そいであさってからまた仕事だぜぇ?」
「あららららら。大変だなぁ」
「杉田は?」
「俺は九日まで休み」
「……いい会社だねぇ」
「まあ、親戚やってる会社なもんでねえ。だから休みの自由はきくわ」
「ふーん。して、杉田はうちに帰ってんでしょ。いつからいるの」
「大晦日に着いた」
「そっち雪すごいんでしょ? 昨日うちの母ちゃん電話でぼやいてた」
「おーおーおー、お前の母さんな? そういや今日スーパーの前で見かけたぞ。遠かったから声かけられなかったけど。あ、そういや井上葉月も通り歩いてるの見たさ。あいつ、子供連れてた」
 井上葉月という名を久々に耳にする。
 高校の時の彼女だった。
「うん、男の子なんだってな。聞いた」
 風の噂で。
「今年の正月な、結構みんなこっち帰ってきてるぞ? おっしーと金村も帰ってきてるから、正孝も居るんなら呼んで、みんなで遊ぶべってなって。そんでお前に電話したんだけど。まあ、東京いるんならなあ。無理だよなあ」
 盆は無理だとしても、正月は必ず実家に帰っていた。
 押切も金村も帰省してるのなら、今年も帰れば良かったと一瞬思う。帰って皆と会いたかったと。
 地元の様子を伝えられると、懐かしさがこみ上げてくる。
 俺からの年賀状がないからどうしたんだと、いまも地元に住んでいる坂田が心配していたらしい。俺のばあちゃんに急に何かあって、それで年賀状が出せなかったんじゃないかと。
 そんなわきゃない。
 奴らに年賀状を出すのが遅れるだけなのだ。杉田にしろ、地元にいる坂田にしろ、特に親しくしている奴には気をつかわなくていいのでつい、後回しになってしまうだけなのだ。
 電話での話が長い杉田だが、今回はわりと早く切り上げられた。といっても十分は話していただろう。
 最後に、ゴールデンウィークは地元に帰るのか聞かれた。
「ゴールデンウィークはいっつも帰んないけどさ、次のは休みしっかり取って帰ろうと思ってんだよな」
「あ、マジ? じゃあちゃんとした日にち決まったら教えれよ。俺も帰るからさ、そん時に会うべ」
「や、でも彼女連れて行こうと思ってるからさ」
「え? お前の?」
 じゃあとうとう結婚すんの? お前、かなり長く付き合ってるもんなあ。
 電話機を通じて聞こえる、妙に甲高い杉田の声。
「いやまだ決まってねえけど」
 まだしようとも言ってないけど。
「でも、そろそろ連れて行ってもいいと思ってんだよ」
 ゴールデンウィークになったら、あそこもいい加減過ごしやすくなっているはず。
 春になったら帰る。そろそろちゃんと、恭子を連れて。


 電話を切っても杉田のはしゃいだ声がまだ、頭に残っている。
 息をこぼしながら携帯電話をテーブルに置く。ペンを持ち、地元の坂田あての年賀ハガキに字を入れていく。
『今年の正月は休みが少なくて帰れなかったんだけど』
 そこまで書いて、あとが続かなくなった。
 帰れなかったんだけど――そのあとは、なんて書けばいいのだろう。
 いったんペンを置いてテレビを見る。明石家さんまは今年も元気に喋っている。
 エアコンの設定温度を下げたはずなのにまだまだ暑い気がする。脇にびっしり汗をかいている。
 テーブルに手をついて立ち上がろうとし、ふと気になってソファで寝ている恭子に目をやった。
 そこでぎくりとする。
 恭子の目が、うっすらとあいていた。ほんとうにうっすらと。
 視線が合ったことを彼女も分かったらしく、羽毛布団の中でもぞもぞ動きながら言った。
 正孝いま、何時?
「ま、まだ、九時になってねえよ。映画はまだ」
「あそう」
 素っ気ない応え。
 俺がしどろもどろになっていても恭子は気にとめていない。杉田との電話の会話は聞いていなかったようだ。
 しばらくすると羽毛布団から白い腕が二本、にょっきりと現われた。あくびをすると恭子はカバみたいになる。
 やっぱり杉田との会話は聞いていなかったらしい。良かったような残念なような。
 いや、やっぱり良かった。
 ずり落ちてしまった眼鏡を中指でくいと持ち上げた時、鼻の天辺にも触れた。中指にぬるり、汗だかアブラだか分からない気持ち悪い感触。
 恭子、と名を呼ぶ。
「今日は掃除して行けなかったから、明日こそ行こう? 横浜。悪かったから俺が一日中運転する」
「ええ?」
 ほんと?
 ゆっくり起き上がった恭子の髪は、乱れてボッサボサになっていた。パーマのウエーブもとれてしまってボッサボサ。
 いまさらそんな姿を見ても俺は何とも思わない。行くでしょ? とただ問いかける。
 行くと返事したつもりなのだろう。恭子が、にっこりとほほえんだ。
 
2005.1 「春に帰る」

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