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すでに私は黒留袖を脱いでしまった。たとう紙に納めてしまった。 ところが夫は袴のままだった。袴のまま、テレビの前に座っている。 寒い部屋で着がえをしていたのでストーブの前にいたかった。けれどまず、カーテンをしめなければいけない。 明かりをつけているというのに、夫はどうしていつもカーテンを閉めないのだろう。人目が気にならないのだろうか。 窓の外のつららを見ながらカーテンを閉める。ほっとしたところでストーブの前に正座した。 私が部屋に入っても、カーテンを閉めても、夫はウンともスンとも言わない。うしろから見るその背中はいつもどおり丸まっていた。かたわらには煙草の灰皿。二十年以上前からあるガラスの灰皿には、小さくなってしまった煙草が一本。夫がいま吸っているのは二本目だ。 居間のじゅうたんは少しくすんだ緑色をしている。買った当初は若草色をしていたはずなのに、ずいぶんくたびれてしまった。煙草で焦がした跡もある。どこでもかんでも煙草を吸い、テレビを見ながら寝てしまう夫のしわざだった。 スポーツニュースでは久し振りにジャイアンツについて放送されている。 夫とテレビの間で揺れている、灰色の煙。 「お父さん」 うしろから呼びかけると、夫はうんと小さくうなずいていた。 「着物はやく脱ぎへんが。汚くなってまうがら」 「うん」 ジャイアンツの情報は終わり、コマーシャルが流れているというのに、夫は身じろぎしない。 「お父さん」 「うん」 「着物、煙草で汚れでまうがら。早く」 それでないば、せめて煙草だけは消してけぇ。 そう続けようとしたところ、逆に夫が口を開いた。 「腹減ったじゃ」 「ええ?」 「腹減った。なんが作ってけぇ」 「あんたさっき向こうで食べだでしょう」 そったに食ってねぇ。 そんな声がすぐに返ってきて、そういえばと思う。 すぐ横の低いテーブルに目を移せば、色とりどりの花の束。娘の結婚式を行なったホテルの名前が印刷された、赤い紙袋。 夫は、ビールばかり飲んでいた。 「おめ、朝に鱒焼いでながったが。それでお茶漬け食うじゃ。作ってけ」 「鱒だっきゃあ、もうないよ。だってあれ、おにぎりにして典子に持だせでやったんだもん」 朝一番に娘に持たせてやった。 「ええ? ひとっつもねんだが」 「うん」 「ごはんは? それに納豆か漬け物があればいい」 「ごはん炊がないとない」 「ああ、んだのがぁ」 夫が小さく舌打ちする。こちらに背中を向けたまま。煙草を消さず、指にはさんだまま。 「他になんが食うのねえんだが。マルちゃんのラーメンでいい」 「ああ、蕎麦だらあるよ。このまえ原田さんからお歳暮でもらったやつ」 「ねぎあるが?」 「あるよ」 「せば、ねぎいっぱい切って蕎麦にのっけでけ」 「わがった。わがったはんで、あんた早く着物脱ぎへ。それでねば作ってやんないよ」 んー、という唸り声のあと、誰かの二度目の舌打ちが聞こえた。 煙草を灰皿でもみ消し、袴姿の夫がのっそり立ち上がった。ううんだの、面倒くさいだのとぼやきながら、頭のうしろをさすって居間を出ていく。 娘の結婚式の前に綺麗にしておかなきゃいけない。 三日前はりきって床屋に出かけたはいいが、切りすぎて格好が悪いと気にしていた髪の毛。 白いものはないが、いくぶん薄くなった。 それはお互い様だ。 居間に戻ってきた夫は、すぐさまいつもの場所にあぐらをかいた。テレビの前。もう少しましな格好をすればいいのにと思うのだが、注意しても直さない。見慣れてしまったらくだ色の肌着姿。 灰皿をぐいと近くに寄せ、背中を丸めながら煙草に火を点けている。その姿がすぐに見える台所で、私は長ねぎを刻んでいた。 戻ってきた夫を見た拍子で手もとが狂い、つながった長ねぎが出来あがってしまったが、まあいい。 原田さんがくれた蕎麦は長くゆでない方がいい。沸騰した湯に軽くおどらせ、すぐにざるにあける。白というより、少し黄味がかった蕎麦。 「お父さん、ちゃんと着物たたんできたのが?」 「うん。たたんだ。それより蕎麦」 適当に返事をされて、そうではないのだと確信する。よくよく考えてみると、夫が上手に着物をたためるとは思えない。 仕方ない。私があとでちゃんとたたんでこよう。 はやく蕎麦はやく蕎麦。と急かすので、つゆが温まらないうちに器にもってテーブルに出してしまった。つゆがぬるくても、ゆでたての蕎麦からじゅうぶんに湯気が出ている。大丈夫だろう。 ところが、夫は黙り込んでしまった。器のなかの蕎麦を見つめて。 箸で蕎麦をつまんだ体勢のまま、なかなか口に入れない。らくだ色の肌着姿のまま。丸まった背中のまま。 夫の目は一度もまばたきをしない。 この人はテレビの音に気をとられているのだろうか。 そう思って画面を見るが、なんてことはない。車のコマーシャルが流れているだけだ。好きなジャイアンツ情報や、最近の小泉政権のニュースが流れているわけではない。 黒い箸でつまみあげられた蕎麦。白いような黄色いようなその蕎麦からは、幾度となく湯気があらわれては消えていく。 「お父さん?」 呼びかけて、もう一度じっくり夫の顔を見る。 その目は大きく、くっきりした二重まぶた。娘の目もとを見ているよう。 結婚式では一度も涙を見せなかったのに、いま、その目はうっすらと潤んで赤い。 「典子、いま、どうしてらんだがねぇ」 私がぽそりとつぶやくと、夫ははっとした。 「……どうしてらんだが、って、いまは向こうのホテルにいるべや。それが、あれのことだはんで、まだ二次会だの三次会だので、友達とほっつき歩いてるんでねぇが?」 ぼんやりしていたのを誤魔化すかのように、夫がまくしたてる。その勢いで蕎麦を口にいれた。 ずずっとすすり、もくもくと咀嚼している。原田さんの蕎麦はうめぇなと、大して意味のないことを言う。 娘は結婚式を行なったホテルに今夜一泊し、明日から旅行に出かける。オーストラリア。娘は、結婚式や披露宴より旅行のほうを楽しみにしていた。 誰かが蕎麦をすする音。誰かのうしろのテレビの音。 頬づえをつきながらぼんやりテーブルを見る。 テーブルの隅に、煙草の焦げ跡がついていた。これも夫がつけたものだ。 (お父さん煙草吸うから近くにいたくない。くさくなるんだもん) 夫が煙草を吸いだすと居間からぷいといなくなる。その娘はもう決して、居間には戻らない。 そうあらためて思うと、夫と同じような目になってしまう。 「なんだこれ、ずいぶんつながってらなぁ」 夫が器のなかの長ねぎを箸でつまんでいた。刻むのに少し失敗したねぎ。 難くせをつけながらも、夫は顔をあげようとしない。私を見ようともしない。 「そのねぎ、頑固でらってさぁ」 小さく笑いながら言い訳をしてみる。 頬づえをついていた私の手からは、つんとねぎの匂いが漂っていた。 〈終〉 「長ねぎ」 2003/11/16 |