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霜月



 来ちゃった。
 亜希子が言った。
 アパートのドアを開けると亜希子が笑って立っていた。
 どういう態度を取ったらいいのかわからない。いきなりのことだったので絶句してしまった。とりあえずうなずいてみる。たぶん間抜けな顔をしているのだろう。
 釧路の十一月は完全に冬だ。
 何日か前には雪が降っていた。その雪の日、男のくせに声をはりあげて泣いていたのを覚えている。
 今日は朝から雨が降っている。もう少しで日も暮れる。
 亜希子はにこにこ笑っている。
 この笑顔が好きだ。亜希子はいつもいつも笑っている。ふわりと軽い空気のような女の子。
 つきあおうと言ったのはこちらからだ。亜希子を大学の食堂ではじめて見たとき、うごけなくなってしまった。目とか耳とかそういう感じる器官が、彼女にそっくり奪われてしまったように思う。
 いま亜希子はベージュのダッフルコートを着ていて、つめたそうな頬を真っ赤にしている。すべすべの肌は化粧っ気がなく赤ちゃんみたいだ。じゃれて抱き合っているとき、その赤ちゃんのような頬に顔をくっつけると「ひげが痛いからやめて」とよく怒られた。その顔がたまらなく愛しくて、ついつい何度も同じことをしてしまっていた。
 亜希子のコートが雨を吸って濡れている。軽くパーマのかかった短い髪の毛も、雨を吸ってうねっている。
「寒いから入れてよ」
 亜希子がほら、と言って目の前にスーパーの袋を見せた。たまねぎとひき肉のパック、ごぼうなどが袋にびっちり詰め込まれていた。
「今日は洋一の好きなハンバーグときんぴらゴボウをつくってあげる。夕ごはんまだでしょ?」
 亜希子の作ってくれるハンバーグが好きだ。次にきんぴらゴボウ。次はおでん。あまり手際はよくないけれど、おいしい料理を作ってくれる。
 失敗もする。
 火加減があまりうまくいかずに、シチューやカレーを焦がすこともしょっちゅうだ。
 焦げたなべの底を、クレンザーとたわしで擦るのはこちらの仕事だった。
 「もう焦がすんじゃないよ、しっかり火見てろよ」と何度注意しても、彼女はそれをしない。料理中にこちらに寄ってきて、抱きついてじゃれてくる。仕方ないなと思って抱き返したりしてるうちに、キッチンから焦げ臭い匂いがして 失敗に気づくのだ。
「ああ暖かい。ストーブ付けてるのね」
 部屋に入った亜希子がベージュのコートを脱ぐと、当たり前のようにいつもの壁掛けにそれを吊るす。彼女は壁にかかっている僕の黒い服に気づかないふりをする。僕はぼんやりとその様子を見ていた。
 僕が似合うねと言った白いセーターを着ている。それを着るとウサギみたいだといつも思っていた。
「……ちゃんと掃除しなきゃだめだよ」
 ベッドに座ってぼんやりしている僕に亜希子が言った。心配そうな顔をしている。
 無理もない。
 何日も風呂に入っていない、着替えも替えていない、ひげは伸び放題の僕を見て変に思っただろう。部屋も掃除していない。散らかり放題だ。
 ここ何日間、何もせずにただ家でごろごろしていた。何もする気が起きなかったのだ。
 九畳のワンルームの中を亜希子がちょこちょこ移動している。買ってきた食材をただ大きいだけの空っぽの冷蔵庫に詰め込んでいる。それが終わると、てきぱきと部屋を片付け始めた。「洋一もほらちゃんとやって!」と言われ、重い腰をあげる。
 テレビはつけていない。聞こえるのはストーブのモーターの音と、雨音だけだ。
 雨はアパートの屋根を叩き、鈍い音をたてている。
 亜希子が古い雑誌を片付けながら言った。
「今日大学行った?」
 首を横にふる。
「もう卒論やればいいだけなんだ。資料もあるし、書くことも大体決まったから、あとはワープロに打ち込めばいいだけ。大学には行ってないんだ」
「そっかあ。あと少しで洋一は卒業だもんね」
 ある物流会社に就職が決まっている。あとは卒論を提出すれば大学生活ともおさらばだ。
 大学生活は色んなことがあった。仲間と出会い、遊び、楽しいことがいっぱいあった。
 一番印象に残っているのはやはり亜希子との出会いだ。 これから先、大学生活といえばおそらく真っ先に彼女のことを思うだろう。
 片付けが終わると、亜希子が小さなキッチンに立って料理をはじめた。たまねぎを危ない手つきでみじん切りしている。今にも包丁で手を切るんじゃないかと思い、はらはらしながらそれを見ていた。
 料理の味はおいしいけれど、その過程はまずい。彼女はぶきっちょだ。
「そんなんじゃ嫁にもらってやんないよ」と言うと、「じゃ別れよう」と言って彼女は頬をよくふくらませた。
 亜希子はよく「別れよう」なんて言い出す。
 これはずるい。例え冗談だとしても、どうして軽々しくそんなことを言うのだろう。
 「別れる」ことはひどくエネルギーをつかう行為なのに。何気ない一言にとても残酷な意味があることが、いまになって分かる。
 せまい部屋の中が玉ねぎやその他の野菜の焼けるにおいでいっぱいになった。おいしそうなにおいだ。最近ろくな食事をとっていない。
 急に腹が減ってきた。
 今日は珍しく料理中に亜希子がじゃれついてこない。
 少しつまらない。
 ごぼうを煮詰めている亜希子の背後にそっと回った。小さくて少しぽっちゃりしている背中を後ろから抱きしめる。彼女が軽く叫び声をあげた。紅茶の缶のようなにおいがする。
 とてもとても好きだと思った。亜希子の背中も、紅茶の缶のようなにおいも、とても好きだ。亜希子のものならなんでも好きなのだ。
 軽く亜希子の首筋に唇をおしつけた。
 僕の唇は乾燥してがさがさしている。少し悪いかなと思ったけれども、やめなかった。やめられなかった。
 彼女の首は白くてなめらかでひんやりしていた。唇が首すじをなぞり、耳たぶをなぞり、お気に入りの頬にむかう。やわらかい。
「いや、くすぐったいからやめて」
 亜希子が笑って、腕を動かして僕から逃れようとする。
 離れたくなかった。きつく抱きしめて、そのまま閉じ込めておきたいと思った。このまま時がとまればいい。11月15日のままでいればいい。
「やめないと別れるからね」
 亜希子が言った。
 ほらまた言った。その言葉がひどく残酷なことを亜希子も知っているはずなのに。かなしくなってくる。
 裏腹だ。亜希子はやっぱりにこにこしている。
「それに洋一、ちょっと臭い。ちゃんとシャワー浴びてきて。その間に多分出来てると思うから」
 ほんとかよ、と思った。亜希子は段取りが悪くて、そう言ってもいつも出来ていないことが多い。思わず疑わしそうな顔をして彼女を見る。
「ホントだってば」
 笑っている。
 思わず彼女の赤ちゃんみたいな頬を軽く触る。
 僕の指は弾力のある肌に吸い付いた。
 つめたい頬だった。


 すっかり日は暮れていた。
 アパートの小さな風呂場でシャワーを浴びて部屋に戻ると、本当に料理ができていた。
 亜希子は「だから言ったでしょう」といった得意げな顔をしている。小さな丸いテーブルに肘を突いて、座って僕を待っていた。
 蛍光灯がこうこうと部屋を照らしている。
 亜希子は蛍光灯の明かりの下でひっそりとたたずんでいた。
 テレビは夕方のニュースをやっている。雨は相変わらず降っている。トタン屋根をたたくぼつぼつした音がやまない。
 しばらく伸びっぱなしだったひげを、シャワーを浴びたついでに剃るとさっぱりした。亜希子は僕の顔を見て「男前になったじゃない」と言ってにこやかに笑った。僕も少しだけ笑った。
 テーブルの上には僕の好きなハンバーグときんぴらゴボウと、大根の味噌汁とほうれん草のサラダがある。料理からはあたたかそうに湯気がたっている。
 この短期間にのんびり屋の亜希子が全て料理をしたのかと思う。不思議なこともあるものだ。
 ハンバーグもきんぴらゴボウも、味噌汁もサラダも亜希子の味がした。久しぶりに味わった彼女の料理は僕の心をあたたかくした。胃袋にすっと吸収されていく。
 僕は早食いであっという間に料理を平らげてしまうのだけれど、今日はゆっくり料理を味わった。亜希子のスペースに合わせてハンバーグもきんぴらも一緒に食べた。
 亜希子はおいしそうにものを食べる。動物で言うと犬みたいだ。感情をすぐ顔に出す。従順で素直でかわいい。
亜希子が食べている様子をじっと見つめた。
 目にやきつけておきたかった。
 夕食を食べ終え、食器の後片付けをした。
 後片付けはいつも僕の仕事た。つきあいだして部屋に亜希子が居座るようになってから、自然にうまれた習慣だ。
 食器を洗っている間、亜希子は黙ってテレビを見ていた。しばらくすると、キッチンの僕のところにいきなりやってきて、後ろから抱きついてきた。
 ああ、きたか。と思う。
 思わず身構えた。
 案の定、亜希子は僕の体をくすぐりはじめた。わざわざ「こちょこちょこちょ」と声をあげてくすぐってくる。「これ」に弱い。ひどくくすぐったくて、大声でゲラゲラ笑ってしまった。
 そして亜希子も「これ」に弱い。いつも一緒にいたので分かっている。
 攻撃をなんとかかわすと、食器を洗ったばかりの濡れた手で亜希子の両手をつかみ、何もできなくした。
 彼女の攻撃は、男の僕の前では非力だ。次に僕が何をするか多分わかっているのだろう。身構えている。
 あっという間に抱きかかえ、ベッドまで連れて行った。ベッドにそっと彼女をおろした。
 彼女の手は小さい。僕は片手で亜希子の両手を支配してしまう。逆に亜希子のわきを余ったほうの手でくすぐった。
 大笑いしている。涙まで出して笑っている。「やめて、やめて」と笑いながら消えそうな声で懇願してきた。
「やめなきゃ別れる!」
 その一言で、くすぐるのをやめた。
 はっとした顔をされる。
「……別れるなんて言うなよ」
 言った。
 亜希子は何も答えなかった。
 沈黙の中、聞こえるのは雨の音とテレビの音とストーブのモーターの音だ。あとは僕の息づかい。
 黙って見つめあう。
 亜希子の目は潤んでいる。
 彼女の柔らかな頬に手を添えた。白い頬はこんなに柔らかくて弾力もあるのに、体温がつめたい。
「冷たいな」
 言うと、亜希子は寂しげに笑った。
「……わたし、冷え性だから」
 ベッドに横たわったままの亜希子が、そっと目を閉じた。僕は黙って亜希子の小さな唇を、自分のそれと重ねた。
 たまらなくなって亜希子を抱きしめた。強く抱きしめた。あまり強く抱きしめたので、彼女が壊れるんじゃないかと思ったくらいだ。
 テレビも部屋の明かりも消してしまった。今日は月もでていない。窓からも洩れるわずかな明かりの下で、亜希子を抱いた。
 いくら抱いても抱いても、亜希子の肌はつめたい。いっぱい抱いて体を温めてやりたかったのに、それがどうしてもできない。
 ひどくもどかしかった。好きだと何度も言った。ふだんこういうことをしているとき、めったにその言葉は口にしない。でも、今日だけは何度も何度も好きだと言った。あきれるくらいキスもした。
 すべて終わってしまった後、亜希子に腕枕した。いつもの習慣だ。
 暗闇の中でもすっかり目は慣れてしまって、彼女の表情がくっきりと見える。ひどく眠そうな顔をしていた。彼女はしたあとにすぐ寝てしまう。僕より先にあっという間に寝てしまうのだ。
 一緒にベッドで眠ると、亜希子がくっつきすぎるので、いつのまにか僕がベッドの隅に押しやられてしまう形になっている。二人では窮屈なシングルのベッドで、ますます小さくなって眠らなければいけない。
 まだ雨は降っている。
 最中の亜希子の甘ったるい声は、雨にかき消されるんじゃないかと思った。
 シーツがぐしゃぐしゃになっている。亜希子が僕の足に自分の足をからめてくる。べたべたするのが好きな甘えん坊だ。本当は終わってしまって眠いくせに、頑張って起きようとしている。
「ねえ」
 汗をかいた僕の腕に、亜希子が冷たい指を這わせた。
「洋一のこれ、いつも気になってたの」
 そう言って、ぼくの腕から一本だけ生えた妙に太い黒い毛をつまんでいる。3cmぐらい伸びている。
 そういえば彼女は前々からこれを抜きたがっていた。別に理由なんてないけれど、そのままにしていたのだ。
「ひっこ抜いていい?」
 返事をする前に、亜希子は黒い毛を引っ張って抜いてしまった。
 突然の痛さに、思わず涙目になった。
 僕の痛さなど気にしてない様子だ。
 亜希子はくすくす笑っている。
「ごめんなさい。ついね。ずっと、やりたかったの」
「………」
 何も言えなくなってしまった。
 怒るどころじゃなかった。ひどく悲しくなった。
 胸の奥がじりじりする。涙がいつのまにかあふれてきた。これは毛をとられて痛かったからじゃない。
 汗をかいて湿った体のまま、亜希子の裸をきつく抱きしめた。僕の顔が見えないように抱きしめた。
 僕は涙を流していた。声を出さないで泣くのはつらい。
 亜希子にばれてたまるものか。泣いているのを見られたくない。
「もうだめみたい。眠くなっちゃった」
 亜希子が静かにつぶやいた。
「だめだ。寝んじゃねぇよ」
 彼女が寝てしまったら、もう本当に会えなくなると思った。ますますきつく亜希子を抱きしめた。
 突然の訃報だった。
 僕の愛しい亜希子は、何日か前の雪の日に事故で死んだのだ。
 その日、僕は男のくせに声をはりあげて泣いていたのに。いま、亜希子の前ではそんなふうに泣けないのだ。
 亜希子は会いにきてくれたのだ。何か不思議な力を借りて、会いにきてくれたのだ。だからそんなふうに泣くわけにはいかないのだ。
 胸元で亜希子がつぶやいた。
「……ごめんね。おやすみなさい」
 とうとう僕は泣いた顔を彼女に見せてしまった。
 亜希子はもう目を瞑ってしまっている。
「いくな」
 腕を掴んで揺り動かしてみる。なんてつめたいんだろう。
 亜希子の体の色がだんだんと透明になっていく。
 そんなの嘘だ。
 視界が涙でぼやけているから、そういうふうに見えるだけなんだ。
 亜希子の裸の背中を思いっきり叩こうとした。でも、感触がしない。さっきまで抱きしめていた亜希子の感触がしない。亜希子の顔が見えない。
「いくな。いくなってば」
 涙が頬を伝ってぼとぼとと枕におちる。
 みっともないくらい情けない声で叫んでいた。


 まだ一緒にいてぇんだよもっとお前の声聞きてぇしもっと抱きしめてぇしひげヅラなすりつけてお前が嫌がるところ見てぇんだよその顔がたまらなく可愛いんだよお前の焦げたシチューやカレーだってちゃんと食ってやるよ焦げた鍋も一生懸命こすってやるよ俺のことくすぐらせてやっからさお前がすんげく好きなんだよだから亜希子頼む
 逝くな


 雨音が聞こえている。
 あかりも何もないのに夜行性動物のようにはっきり物が見える。
 壁にかかっているはずの亜希子のベージュのコートも、ウサギみたいなセーターも、いつのまにかなくなっていた。
 狭すぎるはずのシングルベッドがだだっ広く感じた。
 引き抜かれた黒い毛だけが、 亜希子がいたところのシーツの上にぽつんとあった。
 亜希子はいない。
 もう我慢しなくてもいい。
 とうとう、声をはりあげて泣いてしまった。十一月の雨音が聞こえなくなってしまうくらいに。

(了)改稿2001-12-29
odagiri sunao
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