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夏の終わり




 コンビニの弁当を食べ終え、コップに注いだウーロン茶を飲み干す。
 部屋にひとつしかない座椅子にゆっくり背中をあずける。
 髪の長い女優が映っているテレビを見た瞬間、いなくなった恋人を思い出してしまった。その女優と名前が同じだったからだ。
 あの女優を見るたびに、これからも彼女を思い出してしまうのだろう。
 それはそれでいいと今は思えるようになった。
 食べ終わった弁当。何も入っていないコンビニの袋。空っぽになった透明のコップ。
 テーブルの上を片付ける事もせず女優に見入っていたとき、部屋のチャイムが鳴った。
 いい加減にしろと怒鳴りたくなるくらい乱暴な押し方。何度も何度も連打してくる。こちらがドアを開けるまで押すのをやめないのがいつものパターンだ。
 ドアの向こうにいるのが誰かは知ってる。同期の辻本だ。舌打ちしながら立ち上がった。
 明日は早く出勤しなければいけないので勘弁してほしい。やつがもし酒を持参してきていたら、有無も言わさず追い返してやろう。
 いまだに続くチャイムの連打に、思わずつぶやいた。
 るっせえなあ。
 ドアホンで確認することなどしない。ドアのチェーンをはずし、鍵に手をかける。
「お前いい加減にしろよ! 俺んちのチャイムの電池、なくなるだろ!」
 扉を開けながら怒鳴ったあと、真正面に見えた顔に拍子抜けする。
 当然辻本の顔がそこにあるものだと思っていた。続けざま罵ってやろうと出かかっていた台詞を、慌てて飲みこむ。
 七分袖のベージュのジャケット。黒のスカート。
 藤沢優子が、申し訳なさそうな顔で立っていた。
 暗闇の世界は肌寒い。肩までのびた藤沢優子の髪が、風で少し乱れた。
「……なんで。藤沢がいるの?」
 としか言いようがなかった。
 どうして藤沢優子がうちのマンションを知っているのだろう。
「それはね? 柴崎ちゃん」
 いつものふざけた声がした。
 扉に遮られて見えなかったところから、ひょこっと辻本の顔が出てくる。やつもまだスーツのままだった。風が強いからか、茶色い髪が乱れている。
「ボクがね? 藤沢さんを連れてきたからだよお? アーッハッハッハ。いつものように、ほうらご覧。お酒も持ってきちゃったよお?」
 かさかさと音がして、目の前にビールや梅酒の入った袋を突き出された。
「あっ、ちなみにもう一人いるから! 渡辺も連れてきたからぁ!」
「来ちゃったからぁ!」
 辻本と同じようなテンション。渡辺育子が扉の向こうから赤い顔を出す。長い髪がぱらりと揺れた。
 藤沢優子も渡辺育子も課は違えど同期だった。
 そして辻本は、渡辺育子と付き合っていた。
「……お前ら、飲んできたな」
「三人で飲んできた! そいで、柴崎ちゃんの家近いから行きましょうという話をし、連れて参りましたっ」
「ちゃん付けで呼ぶのやめれや」
「まあまあまあまあ柴崎ちゃん。飲みましょう飲みましょう」
「帰ってくれ。俺、明日早番なんだ。えらい迷惑です」
「だめ、帰んない。俺ら柴崎んちで飲む」
 勘弁してほしい。
 帰らないと駄々をこねる誰かを無視してドアを閉めようとする。
 視界から狭くなっていく夜の景色。いまだに申し訳なさそうな顔をしている藤沢優子の顔。
 ドアが完全に閉まらなかったのは、辻本と渡辺が阻止したからだ。ドアが閉まるのを必死にとどめる二人の手が見えている。
「入れてっ柴崎ちゃん」
「帰れ」
「外はとっても寒いんだっ。入れてくれっ」
「帰ってくれ」
「もう電車がさあ、ないんだよぉ。俺ら終電に乗り遅れちゃって。このまんまじゃ野宿だよぉ」
「嘘こけ。十時だろうが。電車はまだ何本もあるだろ」
「この風でねぇ? 電車が脱線しちゃってぇ。動かないんだよぉ。悲しいよぉ」
「馬鹿野郎。勝手に電車を脱線さすなっ。地上がだめだったら地下鉄で帰りゃあいいだろう」
 夜十時のドアでの攻防。
 手の力がゆるんでしまったのは、近所迷惑なのではないかと思ったからだ。酔っても顔に出ない辻本と、酔ったらすぐ顔に出てしまう渡辺育子。二人の声がうるさかった。
 力をゆるめた拍子にドアが大きく開かれた。
 さあ突入だ! 渡辺! 藤沢さん!
 訳の分からないことを言いながら、辻本がズカズカと部屋に入ってきた。すれ違いざま鼻に入ってきた、酒の匂い。
「おじゃましまぁす」
 続けざま陽気な声。渡辺育子が入ってきた。
 辻本と渡辺のコンビは遠慮というものを知らないのだろうか。
 呆れながらワンルームの様子を眺める。
 袋に入った酒類を床に置いた直後、辻本はベッドにダイブしていた。渡辺は渡辺で、ひとつしかない座椅子にどっかと腰を下ろしている。
 今夜は眠れるのだろうか。
 小さく溜息をついてドアの外をのぞく。まともな人間、藤沢優子がそこに残っていたからだ。
「ごめんね柴崎くん夜遅くに。あたしは、帰るね?」
「ああ……」
 うんと頷きかけて頭をかく。
 ドアの外。暗闇に浮かぶ灯りは心もとない。
「いや、駅まで送ってくけど? まわり暗いし」
「あ、ありがとう。でもいい。駅まで遠くないし。それより悪いけど、辻本くんたち相手してやって?」
「いいよ。やつらなんて勝手にやらせとくから。送ってく」
「あっ、ほんとにいいの。あたしは一人でもぜんぜん平気だから」
 あたしは一人でもぜんぜん平気だから。
 藤沢優子はうつむき、風のせいで乱れた髪の毛を手でなおしている。
 藤沢さんもいらっしゃいよぉ。柴崎ちゃんちはあたたかいでぇーす!
 ベッドを占領している酔っ払いの声がうしろから聞こえてきた。そこでふと、藤沢優子と目が合った。困ったように首をかしげて笑ってくる。
「辻本くんがあんなふうに言ってるけど、どうしよう」
「え?」
 どうしようと言われても。
「迷惑だよね。あたし、帰った方がいいでしょ?」
 藤沢優子の目はとっくに違う方を向いていた。下の方。
 帰った方がいいでしょうと言われて返答に困る。藤沢優子がこちらを見ていなくて良かった。困惑しているのを悟られない。
「好きにすればいいんじゃないの?」
 とっさに出た言葉がこれだった。言ってしまってすぐに後悔する。もっと違う言い方もあったのに。
 うつむく藤沢優子がうんとつぶやくのが聞こえた。彼女が身につけているスカートは黒。靴も黒だった。
「じゃああたしは」
 そのあとにおそらく「帰るね」という言葉が来るのだろう。待っていると、うしろの酔っ払いがまた横やりを入れてきた。
「藤沢さぁん! なにしてんのぉ。あがりなさいよぉ」
 夜なんだから静かにしててほしい。
 辻本の声に反応して藤沢優子がふたたび顔をあげる。その隙をみて声をかけた。
 あがってけば?


 最初に寝てしまったのは藤沢優子だった。
 酒に弱いからと普段飲まない彼女が、今日は梅酒のソーダ割りを二杯も口にしていた。酔って具合が悪くなったというより、気持ちが良くて寝てしまった感じだ。
 ビールの空き缶やコップが置かれているテーブル。その隅にうつぶせて、藤沢優子は寝ていた。
 辻本と渡辺はさんざん飲んで騒いでくれた。買ってきた酒類をすべて飲み尽くし、深く酔っ払って突然眠りこけた。困ったのは、二人にベッドを占領されてしまったことだ。
 どこで寝ればいいのだ。座椅子を倒してベッド代わりにでもしようか。
 明日のことを気にしてほとんど飲まなかったので、こちらはしらふだった。
 こうやって訪ねてこられると、いつも後味の悪い思いをする。渡辺と並んで眠っている辻本を見て苦笑いする。
 壁にかけている時計に目をやる。一時を回っていた。
 もう本当に帰る電車もない。
 タクシーで帰す手もあるが、眠ってしまった三人を無理矢理起こそうとは思わなかった。
 明日は六時四十分には家を出ないといけないから、それに間に合うように三人をたたき起こそう。
 やれやれと思って立ち上がる。テーブルに散乱しているビールの空き缶を片付け始める。藤沢優子が口をつけたコップも。
 すうすうと寝息をたてている藤沢優子は、ジャケットを脱いで薄手のブラウス姿になっていた。このままでは風邪をひくかもしれない。
 脱いであった彼女のジャケットを手にとる。そっと近づいて背中にかけてやる。ベージュのジャケット。
 とじられている藤沢優子のまぶたがぴくぴくと震えていた。夢をみているのだろうか。なんだか小動物のような寝顔。
 ふっと、会社前のバス停でのことを思い出す。
 去年の十一月のことだ。
 その日、札幌は初雪が降った。重さのない、地面にぶつかった途端たよりなく消えてしまいそうな細かい雪が。
 あたりまえのように冷えていた夜。藤沢優子もこちらも、真冬の格好をしていた。
 バスを待っていたのは二人だけ。お互い知らない仲ではなかったし、沈黙が気まずくてだらだらと話をしていた。何を話したのだろう。覚えていないということは、どうでもいい内容なのだ。
 話が続かなくなり、お互い黙り込んでしまった時があった。
 気まずさを誤魔化すように腕時計をのぞきこんだ。外に手首をさらすと同時に文字盤に落ちてきた雪。指で文字盤をこすってから手首をしまった。
 時刻表に載っている時間をとっくに過ぎてるのに、バスはなかなか来てくれない。足元から寒さが染みてくる。
 藤沢優子に悟られないように小さく息をこぼした時に、言われた。
(柴崎くんは、付き合ってるひと、いないの?)
 いないよ。
 そう答えると藤沢優子がほっとした顔をして続けた。
(あたしは、前々からいいなと思ってたんだけど)
(え?)
(あの、柴崎くんのこと、気になってたんだけど)
 夜になると、会社の前は人っ子ひとり通らなくなる。たまに自動車やタクシーが通るだけ。
 音のない雪が降るあの夜は冷静だった。冷静に藤沢優子の気持ちを聞いて、冷静に彼女の申し出を断わった。付き合っている人もいない。いまは誰とも付き合う気がないと。
 あの夜、藤沢優子に言わなかったことがある。
 とても好きだった恋人がいて、彼女はもうこの世にはいないということ。そしてあの日がまさに彼女の命日だったということ。
 まだまだ全然、心に彼女を残していたこと。


 客が来るとなぜか、自分の部屋の乱雑さが気になってしまう。
 三人が眠っている隙に部屋の物を整頓し、片付けた。
 ベッドを占領している二人に毛布をかけてやる。藤沢優子にもさらにタオルケットをかけてやった。
 特等席の座椅子に背中をあずけ、テレビのリモコンを手にする。アメリカからのテレビショッピング。若手芸人のコント番組。字幕つきのフランス映画。
 テレビに集中できる気がしない。眠れる気もしない。
 すぐそばのテーブルで目をつぶっている藤沢優子はやはり、小動物みたいな顔。
 煙草とライターを持って立ち上がる。白いカーテンをよけて窓をあける。
 風はそれほど強いが、空気は冷たい。トレーナー一枚では物足りない気もする。
 それでも外に出た。ベランダに置いてあった古いシューズを履く。
 鉄の手すりに肘をついて下を見おろす。木々に囲まれた公園は、ぽつぽつと灯りはあれども暗かった。風が吹いて葉っぱが揺れ、ざわざわと木が鳴いた。さすがに真夜中だから人なんかいない。
 公園に添うようにある細い路地に何台もの車が停まっていた。いちおう駐車は禁止なのだが、いつもこんな感じだ。
 やわらかいケースから煙草を一本取り出して口にくわえた。風があるので手でかこいをつけてライターのボタンを押す。炎がふるえて難儀だったが、なんとか煙草に火は点いた。
 吐き出した煙はただよう間もなく消えてしまう。
「煙草、吸う人だったっけ?」
 うしろから唐突に声がして驚く。
 振り返ると、しっかりとベージュのジャケットを羽織った藤沢優子が立っていた。部屋の中で、窓をあけてこちらを見ていた。
 突風が吹いた。
 指に挟んでいた煙草が拍子で落ちてしまう。階下の公園の木々がざわざわと鳴き、開け放たれた窓を通っていく風が部屋のカーテンを激しく揺さぶった。藤沢優子はとっさに顔をしかめた。
 風が落ち着くと、藤沢優子は表情をもどしてやわらかく笑った。
 いまの風、すごかったね。
 そうだなと返事し、指からこぼれ落ちた煙草をさがす。
 ベランダの地べたに煙草はない。下に落ちてしまったのだ。
 新しい煙草を欲してジーンズのポケットに手をつっこんだ時、少し変だと思った。
 ――煙草、吸う人だったっけ?
 藤沢優子はそんなことを言った。
 へんなことを聞くものだ。彼女の前で、何べんも煙草を吸っているというのに。
 ポケットからケースを取り出した時、藤沢優子がぽつりと言った。
「洋一、セブンスター吸ってるんだ」
 洋一。
 自分の名前を聞いた途端、つま先から頭のてっぺんまで一気に総毛立った。
 感情が高ぶるあまり、「ひっ」と小さく叫んでしまった。
 力がなくなった手からセブンスターが地べたに落ちる。
 札幌に越してきて二年になるが、この街で下の名前を呼ばれたことはなかった。みな名字で呼ぶ。柴崎。柴崎くん。
 いや。
 よくよく考えてみると、下の名前で呼んでくれた人間自体いままで少なかった。
 両親、弟、親戚、そして恋人。
 年の近い人で「洋一」と呼んだのは、死んだ恋人ぐらいだった。
 死んだ亜希子だけ。
 流れの速い空気。近くの公園でざわざわと葉っぱが鳴く。開け放たれた窓を通っていく風が、部屋のカーテンを激しく揺さぶる。藤沢優子と名のついた人間の髪が、いいように乱される。
 しかし、藤沢優子と名のついた人間は、風におじけづくこともなく柔らかい笑顔を浮かべる。
 藤沢優子と名のついた人間のうしろで、カーテンが激しくはためいている。白いカーテンは、ここに越してきてから買ったものだった。ベランダにつながった大きな窓に合わせて買ったもの。
 亜希子か? と口を動かす。だが声が出ない。
 それどころか、力が入らず身体までも動かない。
「うん、そう。わたし」
 藤沢優子の身体を借りた亜希子が、ゆっくりと頷いた。
 覚えてる。覚えてた。変わらない。
 やわらかい声の出し方やその物腰。その笑い方。
 亜希子が目に涙をうかべながら口を開く。
 ばかね洋一。と。
「ばかね洋一。わたしを見て、幽霊を見るみたいに腰抜かして驚いてるくせに、どうしてこの人のことをちゃんと考えてあげられないの?」
 この人。
 そう言いながら、亜希子は彼女自身を――藤沢優子の身体を、抱きしめていた。


 亜希子の気配がなくなった。
 窓があけられたままだった。おかげで、風にあおられた白いカーテンがわさわさ揺れている。
 けれど窓を閉めることはしなかった。しばらく開けたままにしておきたかった。身体が思うように動かなかったせいもある。
 亜希子がいまになってどうして現れたのか分からない。
 亜希子がどうして、藤沢優子の身体を借りて現れたのか。分からない。
 ベランダの地べたに落ちたセブンスターを拾い上げる。やわらかいケースの中の一本を口にくわえる。
 そう。確かに。
 煙草を吸いだしたのは、亜希子がいなくなってからだ。
 ライターを煙草に近づけて火を点けようとするが、なかなか上手くいかない。それは強い風で炎がゆらめいているせいだけなかった。手が震えて、火が煙草の先にたどりつけないせいもあった。
 ようやく火が点いた。味わうこともせず、すぐに煙を外に吐き出す。ただよう間もなく消えてしまう煙。
 風ではためくカーテンの向こうを、まだのぞいていない。
 藤沢優子はどうしているのだろう。再びテーブルの隅でうつぶせになっているのだろうか。部屋から出て行った可能性もある。
 すっかり忘れていたが、辻本と渡辺はまだベッドで寝ているのだろうか。
 何かが変わっていても、動じない自信がいまの自分にはある。
 けれどすぐに部屋には戻らない。しばらくここで、ベランダで、煙草を吸っていたかった。


 十分もすると身体が冷え切ってしまった。
 ついこの前強烈な残暑がやってきたが、あんなことはもうないのだろう。暑さがぶり返すなんてことは。
 つめたい手すりに肘をついて煙草を吸う。背中を丸めて下を見おろす。
 木々に囲まれた公園は、ぽつぽつと灯りはあれども暗い。昼になればそこが子供やその親たちでにぎやかになるのを知っている。
 葉っぱが色づくようになれば、夜の公園であっても少し違って見えるだろう。雪が積もる頃になれば、白く幻想的な場所となる。
 何度も季節は変わる。歳を取っていく。
 辻本や渡辺の二人がどうなっていくのか知らない。藤沢優子と自分がどう変わっていくのかも知らない。変わらず、交わらず、過ぎていくのかも知れない。
 確かに言えることがひとつある。亜希子のことだ。
 もう、亜希子がこの世に現れることはないだろう。
 その根拠がどこから来ているのか自分でも分からないが、そんな気がするのだ。
  
 (終)夏の終わり〜「霜月」から二年 
  2003.10.1 
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(C) ODAGIRI SUNAO