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名字


 それについてさんざん話し合ったのに、今日入籍するのはやっぱり嫌だと彼女がごねる。
 本日は仏滅なり。
 車から降りてさあ届を出しに行くかという時だった。見あげれば八階建ての茶色い建物。市役所が待っている、のに。
 今更なしたの、二人で出しに行くんなら今日しか予定合わねんだ。
 出来るだけ優しく言い聞かせてみたものの、内心はやきもきだ。
 まだ少し雪が残る駐車場に突っ立って話し合っているうちに、体が震えてきてしまう。少しばかり風が強い。どうせすぐ済むだろうとコートは家へ置いてきてしまった。パーカーとジーンズだけでは寒すぎる。
 右手に持っていた白い封筒が、わずかにひしゃげてしまっている。話に夢中で力をこめてしまっていた。
 婚姻届というものが、この中におさまっているというのにだ。
 いまだ彼女は納得のいかぬ顔。うーん、でも。と首を傾げつつ。
 髪も顔も服も、時間をかけてめかしこんで来たくせに訳が分からない。彼女の身を包んでいる白いコートが暖かそうで羨ましい。見ているうちにますます震えてきてしまう。
 もう待てん。
 彼女の腕をがしっと掴んで歩き出す。
 後ろからちょっと! と聞こえてきたが構わない。
 行かなかったらこの場でお前のおっぱいとケツ百万回揉んでやる! とかなんとか意味不明なことを吐きながら、市役所まで引っぱった。


 書類を出して身分確認。それだけで済んでしまうのだ。
 では受理致します。本日はおめでとうございました。
 お決まりだろうに、窓口の職員の言葉がものすごく厳かだ。二人で深々とお辞儀して戸籍住民課をあとにする。
 なんやかや言い合った行きとは逆で、済んでしまった帰りはお互い無言。
 夫婦になった実感がない。それどころか何も考えられずにいる。
 それは彼女も同じらしく、隣では放心したような顔。
 市役所を出ればすぐそこは駐車場。佇んでいる自分の車。
 何分間かあの場所で論じ合っていた時は、本当に寒かった。焦りと苛立ちも相まって。
 けれど今はそうでもない。寒くはない。
 積雪が、まだ隅にとどまっている。土埃で点々と黒ずんだあの雪は、すぐ消えてしまうのだろう。現に今、彼女の髪を揺らしている風は土の香りをはらんだ春のもの。そんなことを感じる余裕もなかった。とにかく無事に終わってほっとした。
 ごめんな?
 と今更ながら謝ってみる。
 ちゃんといい日に籍入れられたらよかったんだけどな。申し訳ない。
 ううんいいよ。
 と彼女は静かに笑う。
 そんなのもう、どうでも良くなっちゃったから。
 

 何も食べずに出てきたせいで、お互い腹が減っていた。
 せっかくだから雰囲気のいい店へ食べに行こう。と彼女がリクエストしたのは、川沿いを進んだところにあるフレンチレストラン。一緒に何度か行ったことがある。もうランチタイムも始まっているだろう。
 さっそく車を走らせれば、彼女にねえ。と呼びかけられた。
 いつものように名字のほうで。
 あの店に行くんならさ、ちゃんと着替えたほうがいいんじゃない? いくら何でもその格好は、きつくない?
 確認しなくても分かる。助手席から投げつけられている冷たいまなざしは。
 まあそうかも知れない。彼女の言うとおり、カジュアルなレストランと言ってもこの格好では浮くだろう。いつものパーカーとジーンズでは。
 グレイのパーカーはところどころに毛玉が付着し、ジーンズは色あせてボロボロだ。裾も当然擦り切れている。
 はいはいはいはい分かりましたよ。家で着替えてまいりますよ。
 クッと笑い、点滅させていたウインカーを消していく。どうせ車でなら家まですぐだ。
 車道の雪は消えていて、路面もすっかり乾いている。スタッドレスをやめて夏タイヤに交換するかな。いやいやまた雪が降る可能性もあるからよしておこう。なんてことを巡らせる中でふと思う。
 こいつ、いつまで俺を名字で呼ぶんだろう。
 自分だってもう同じ名字のくせにして。
 出会ってからずっと、付き合ってからも、彼女からは名字でしか呼ばれたことがない。結婚が決まってからもそのままだ。
 これからどうする気なのだろう。いつ、どのタイミングで下の名を呼んでくるのか楽しみだ。
 いつものスーパーマーケットを左折した時、助手席は言う。
 何をにやけてるんですか?
 いや何でもない。
 と返してみるものの、ついクッと笑ってしまう。
 車は住宅街をなめらかに進む。自宅アパートはすぐそこだ。
 二人でも十分な広さだと思っていたけれど、彼女が越してきたとたん荷物の多さで窮屈になってしまった。次はもっと間取りがあるところへ越さなければ。
 出来れば賃貸ではなくて、マンションでも何でもいいから買ってあげたい。意外と家庭的で、家事をきっちりこなす彼女に家を持たせてやりたい。もし自分に万が一のことがあっても、持ち家が残っていれば安心だ。住むところには困らない。
 自分の母もよくこぼしていた。ちゃんと家が持ちたいと。けれど父親があちこちを渡り歩く職だったから、叶わぬままで終わってしまった。
 残念ながら、自分のほうもあちこち移り住むだろう職にある。家を持たせてやりたいけれど無理かも知れない。可哀相だな。
 そんなことを考えているうち、車は自宅アパートへ着いていた。
 (終)
 「名字」
  2008/09


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