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茶々


 運賃箱に二百四十円をいれる。よっこらしょと階段をおりたら雪が融けてシャーベットのようになっていた。短い靴のなかにつめたいものが混じるのはよくあることで、いまさら気にしていられない。それに私は機嫌がよかった。術後の経過がよく、夫は一週間後に退院できるという。
 道路をはさんですぐ向かいに家がある。その前に宅配便の車が停まっているのを知ったのは、バスが走り去ってからだった。水色の上着を着た男が玄関先に立っている。
 いい時に帰ってきた。
 だが不在と思ったのだろう。郵便受けに伝票をいれて車に戻ろうとしている。よく配達しに来る馴染みのにいちゃんだとわかった。
 おーいと声をあげ、ついでに右手を振る。にいちゃんが私に気づいて大きく頷いた。
 ざくざくと雪の道路を渡り、にいちゃんから荷物を受け取る。高島屋の包装紙にくるまれた箱は娘からだった。両手がふさがってしまう大きさではあっても軽い。夫ではなく私宛てになっていた。
 開錠し、引き戸をあけてただいまぁと声をはりあげる。
 すぐ反応はなかった。雪がはいってしまった靴を脱いだところで、小さくみゃあと鳴き声。
 いま行くよ。
 心でつぶやいて靴をひっくり返してみる。雪はなかで完全に溶けたようだ。たらりとも落ちてこなかった。
「お母さんが帰ってきたよぉ」
 廊下を歩きながらおどけた声をだす。そして居間のドアをそっとあけると、まんまるい二つの目。私を待ち構えておすわりしていた茶々が、また鳴いた。
 茶色いトラ猫だから。
 安易な理由で名前をつけたのは夫だった。でも私も気に入っている。響きがいい。茶々。


 雪があんな風に融けてしまうくらいだ。外はたいして寒くなかった。そのせいか居間がやたらとあつく感じる。茶々のためにつけっ放しにしているストーブのせいだ。
 えんじ色のコートを脱ぎ、ソファの背もたれにかける。娘から届いた荷物が気になっていた。赤い薔薇の包装紙をさっそくはがしてみる。
 箱に入っていたのは帽子だった。つばの広い、アイボリー色の帽子。目立たない程度にこまかな縄目の模様があり、かざすと繊維のすきまから天井がうっすら透けて見えた。
 窓からこぼれる陽射しが帽子を照らしている。私の手元に春がやってきたようだった。
 「どれ」と帽子をかぶる。夫が入院してからというもの、ひとりでつぶやくことがますます多くなった。
 帽子は私の頭をしっかり包んでくれる。ちょうどいい大きさだった。
 鏡が見たくなって電話台に移動する。電話の横にある立て鏡に私がうつりこんだ。
 少しつばが広すぎるように思う。鏡のなかの私は目がかくれてしまっていた。けれど少し角度を変えてみるとなかなかいい。
 突然、ふわりとした感触が足にふれた。下を見るとまんまるい目が二つ。
「どんだ? 似合うが」
 茶々は返事なんてしない。ぴくりともしない。ただ不思議そうなまなざしをよこすだけだった。
 私は苦笑いして引き出しをあけた。なかから住所録をとりだし、娘の家の電話番号をさがす。
 今日が私にとって何か特別な日というわけではない。それよりも、娘の誕生日が明日に控えていた。
 意外な贈り物にどうしたのだろうと思いつつ、やはり嬉しくて声が聞きたい。
 呼び出し音が六回鳴ったところで受話器から娘の声がした。
「もしもし」
 東京の発音で喋られると違和感がある。むこうの人間になってしまったのだとあらためて思い知らされる。
 それでも私だと告げると、娘はすんなりこちらの言葉に戻る。
「あーお母さんが」
 なんとなく声に元気がない。
「あれ、典子あんたなしたの」
「え。なんもしないよ」
「風邪ひいだのが」
「いやひいでないよ」
麻緒まおちゃんは。元気でら?」
「麻緒? うん、相変わらず元気元気。元気すぎで困ってらぁ」
 受話器のむこうからくすくすと笑い声。
 でも麻緒いま昼寝してらんだ、と言われて納得する。声の調子を落としていたのはそのためだったと。安心した。
「もうすぐで麻緒ちゃんも誕生日でねが。典子と五日違いだはんで」
「んだよぉ。一歳になるよぉ」
「あっという間だなぁ」
 んだっきゃあ。
「それよりお父さんは? 退院までどれくらいかがるの。大丈夫でら?」
「あ、なんもだぁ。うぢの父さんあと一週間したら退院できるって」
「ほんとにぃ! よがったねぇ」
「よがったっきゃあ」
「でもあれだねぇ、思ったより早がったねぇ。手術したばっかりでないの。なんがなぁ、大丈夫なんだが」
「大丈夫だぁ。やっぱりさ、悪いどこ早いうぢに見つかったのがよがったみたいだよ」
「ああー、んだのがぁ。よがったねぇ。それはほんとによがった」
「もうお父さんだっきゃ普通にごはん食べでらよ。今日も病院行ってきたんだ。元気でら。したはんで大丈夫だ。心配するな」
「やぁ、ほんとぉ。いやぁー、わたし安心したじゃ。でも一番安心してるのは、もちろんお母さんだんだろうけどもさ」
 よがったね、お母さん。
 そう言われて口元がほころぶ。電話横の立て鏡にちらり目をやると、笑顔の自分と目が合った。
 鏡のなかの私は、娘から届いた春色の帽子をかぶっていた。
 典子、と口にする。
「帽子届いだよ」
「ああ届いだんだ」
「あったかぐなったら、かぶるじゃ。ありがとうね」
「ううんなんもさ。あ、大きさ平気だった?」
「ああぴったりだったよ。でもあんた」
 突然なしたのぉ。
 と茶化すように尋ねると、電話のむこうは押し黙ってしまった。
 しばらくして小さく笑い、こう返してきた。
 いや、ちょっと気持ちだよ。
「あんたのほうが誕生日だベさぁ。お母さんなんが送ってやるはんで。なんが欲しいのないが。あんた自分の物とが買ってらんだが。あ、あんたピアス好きでよぐしてるべさ。今度お母さんいいの選んで送ってやるはんで」
「なんもいらないよぉ」
 もう充分してもらったもの。いらない。
「なに遠慮してらのさぁ。あ、んだ。それでながったら麻緒ちゃんのもの買ってやるはんで。麻緒ちゃんなにが好きでら? リカちゃん人形はどんだ。リカちゃんはまだ早いか」
「や、ほんとにいいってぇ」
 電話のむこう。困った顔で笑う娘の姿が浮かぶ。
 遠慮するな。いらないよ。の押し問答を繰り返したあと、お互いが一瞬黙りこんだ。そしてどちらからともなく忍び笑い。
 ばねのように伸びる受話器のコードに指をくぐらせて遊んでいると、足元から鳴き声。茶々がすりすりと体をこすりつけてくる。
 お母さん。と何百キロも離れたところにいる娘が言った。
「いまさらだけどさ。いままで、ごめんね。わたしば育てるの、大変だったでしょう」
 あんたなに言ってらのぉ。と笑い飛ばそうとしてやめる。
 指に遊ばせていた受話器のコードを離すと、ぷらんと垂れ下がって小刻みに揺れた。
 足元で、んなぁと茶々が鳴く。
「大丈夫だんでらが?」
「ええ?」
「麻緒ちゃんといるの大変だんだが? 疲れでらんでないが」
 そう聞くと、逆にむこうに笑われた。
「大丈夫だよぉ」
 わたしは楽しぐやってらよ。
「それだばいいんだ」
 受話器のコードをふたたび指にくぐらせる。足元で茶々がしつこく鳴き続けていた。んなあぁぁ。んなあぁぁ。んなあぁぁ。
「なんがさ。声聞こえでない?」
「うん、茶々だ」
「あーお父さんについできた野良ちゃんが。大きぐなった? めんこい?」
「大きぐなったよぉ。はじめはちいちゃくってガリガリだったけど、いっぱい食べるはんでねぇ。それにめんこいよ。ひとりでちゃんっとお留守番してで、帰ってきたらおすわりして待ってでお帰りって鳴ぐんだぁ。まんずめんこいよぉ」
「そっかあ」
 娘がしみじみと言う。
 お父さんもお母さんも猫、かわいがってらんだね。
「んだ」
 思わずへへへと笑ってしまった。
「うぢのマンション、ペット飼えないがらなぁ。いいなぁ。今度茶々の写真送ってよこしてよ」
「んだね。今度送ってけら」
「それにしてもよぐ鳴くね。お腹すいでらんでないの」
 足元をのぞく。
 茶々は私を見つめ、いまだに鳴き続けている。いつもは可愛らしく控えめに鳴くが、空腹の時は違う。んなぁんなぁと唸るように鳴く。そのまま餌をあげないでいると、いたずらをしてくるようになる。
「んだ。お腹すいでらんだ」
「したらごはんあげねば。かわいそうだよ」
「んだね」
「せば、ね。まだ今度ね。お父さんによろしく。お父さん退院するころ、わたしまだ連絡するがら」
「うん。せばな。風邪ひぐなよ。そっちはだいぶ春めいできてらみたいだけども、まだ寒い時もあるべさ。麻緒ちゃんにかかりっきりで自分の体のこど考えでないんでないが? 気ぃつけへぇよ」
「うんわがってる。お母さんも体に気ぃつけで。あ、んだ。お母さん」
 そこで娘がふふっと笑う。
 帽子のことはお父さんにちょっと内緒でね。


 電話を切り、私はすぐに丸い深皿を用意した。底に桜の花びらの模様が浮きあがっているそれは、茶々のお気に入りだ。ざざざと適量のドライフードを盛る。
 ご飯にありつけるのをしっかり理解している。茶々はぴたりと鳴きやんだ。
「ごめんねチャッチャ。お腹すいたべ。はいどうぞ」
 おすわりしている茶々の前に皿を差し出すと、待ってましたとばかりに食べ始めた。
 食べるさまは一心不乱だ。名前を呼んでも反応せず、ひたすら食べ続ける。
 口の中に餌を運ぶたびに見える、牙と舌。ぴょんと横にのびたひげ。幸せそうに時おりつむる目。咀嚼するたびに小さな頭が揺れ、口元からカリカリと音を響かせる。
 満足したあとは少し私に甘え、そのうち眠くなって寝てしまうのだろう。
 丸い皿からぽろりぽろり、ドライフードがいくつかこぼれて床に落ちる。そんなことなど気にせず、茶々は餌を頬ばっている。ずうっと一生懸命に。
 茶々を見ていると、なんとなく昔の娘を思い出してしまう。生まれて間もなくの娘のことを。
 お腹がすいたと泣き、かまってほしいと泣き、眠りたいから抱きしめてと泣く。そして欲求が満たされればくったり夢の世界へ行く。
 明日は娘の誕生日だ。
 三十一年前のあの日、あの瞬間、私は世界で一番幸せだった。
 いま娘は三十年前の私を生きている。そして孫もまた、三十年前の娘を追うように生きている。
 苦労せずに生きてほしい。しかしなかなかそんなうまい訳にはいかないだろう。いまはよいとしても、悲しい思いをする時もあるだろう。それは仕方ない。
 生きていてくれたらいい。ただ元気でいてくれたらいい。電話のむこう、何百キロも離れたむこうで暮らす娘に望むのはそれだけだ。
「チャッチャ」
 皿に顔をうずめ、一生懸命咀嚼している茶々の頭にふれてみる。なめらかでふうわりしていて、あたたかい。
「チャッチャ。あんたの大好きなお父さん、もうちょっとしたら病院から帰ってくるってよ。よがったね」
 撫でながらささやくと、茶々が動きをとめた。まんまるい目に射抜かれる。
 耳がぴくんと動く。不思議そうな顔をされる。
 そういえば、帽子をかぶったままだった。
 思わず苦笑い。帽子をはずして茶々のとなりに置く。乱れたであろう髪を手ぐしで整える。
 茶々がふたたび皿に顔をうずめた。咀嚼しはじめると、かわいた音が響きわたる。
 部屋は変わらずあたたかかった。窓はストーブのすぐそばにあり、あつい空気がゆらゆら揺れているところを陽が照らしている。夫が帰ってくる時は今日のように晴れていればいい。
 もこもこした茶色の毛。春色の帽子。ふたつを交互に見ながらふと、亡くなった母を思う。
 あの人も私とおなじ気持ちでいたのだろう。そう考えると、せつなくて泣きそうになった。
 
(終)
 2006.4 (C) 小田桐

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