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汗の匂い




 嫁さんにしがみついて指しゃぶりしていた娘が、いつの間にか目を閉じている。それを見て姉貴が声をひそめた。
「寝たね」
 嫁さんがうなずき、娘を抱いて椅子から立ち上がる。もうすぐ三歳になる娘はさすがに重い。立ち上がった時、嫁さんがわずかにふらついた。 
 拍子で、娘の指がくちびるから外れる。
 それでも起きる気配はない。
 むこうに寝かしてくる。とリビングから出て行こうとする嫁さんを、姉貴と二人で見送った。もう娘の顔は嫁さんに隠れて見えなかった。見えたのは、うすいパジャマのズボンから出ている小さな足だけ。


「美月やっと寝たかあ」
 すでに十一時をまわっている。つい先ほどまで、娘は姉貴と追いかけっこにボール遊びをしていた。たいして広くないリビングで。
 姉貴はいま大宮の実家に住んでいる。このマンションには車で二時間ほどの距離だ。そう遠くないから月に一度はここに泊まりに来る。今日は会社の夏休みを使って遊びに来ていた。
 中途半端にしか遊んでくれない俺や嫁さんより、真剣に遊んでくれる姉貴のほうがいいに決まっている。姉貴が遊びに来ると、娘はずっとそちらにべったりだ。しかも興奮してなかなか寝ない。
 今夜もそうだった。
 それでも、ふらりと嫁さんに抱きつきに行ってから、案外と早くに寝てくれた。
「ごめんねぇ。いつもあたしが美月ちゃん興奮させちゃってるよね。夜寝るの遅くなっちゃうし。美月ちゃんのリズム狂っちゃって、あーちゃん気を悪くしてないかなあ」
 ダイニングテーブルに頬杖をついて、姉貴が苦笑い。
「ああ? あいつならなんも思ってないよ。寝るの遅くなるのはちょっと困るけど、まあ、たまにはいんじゃない? 美月、姉貴が来ると毎回すんげえ楽しそうにしてるし。俺らがびっちり遊んでやることって、そうないからさ」
「そう? うーん、ならいいんだけど」
 姉貴がふぅと大きく息を吐いた。顔が汗ばんで少し光っている。
 疲れたはずだ。子どもと遊ぶのは体力がいる。
 よっ。と手を伸ばし、テーブルの端にあったリモコンを取る。娘がいなくなったから遠慮せず冷房を強くできる。
 ピピピとリモコンを操作していると、聞こえてきた忍び笑い。
「あ? 何?」
「いやいや」
 姉貴はにやつきながら、テーブルに置いてあったグラスに口をつけた。
 飲みかけのビールはただぬるいだけだろう。泡なんてとっくに消えている。
「あーちゃんに申し訳なくなっちゃうんだよねえ。美月ちゃん、見るたびあんたにそっくりになってくんだもん。美月ちゃん完璧うちらの家系の顔してるよね」
 あーちゃんに似れば美人で良かったのにさぁ。
 しみじみ言ったあと、姉貴がビールを飲み干した。
「なんだその、美月の顔が残念みたいな言い方。俺に似てるってことは姉貴にも似てるんだぜ? 自分も残念な顔だって認めてるようなもんでしょうよ」
 姉貴がケラケラと笑う。
「うん、いいんだよっ。その通りだしぃ」
 空になったグラスが勢いよく置かれた。大丈夫かと思って姉貴の顔を見たが、赤くなってない。まだ酔ってはいないはず。
 テーブルには酒のつまみがいくつかあった。そのうちの枝豆に手を伸ばすと、姉貴もそれに続いた。
 それまで枝豆には誰も手をつけていなかった。茹でたてを出したのに、いまは表面がすっかり乾いている。皮をおおっている薄茶色の毛に触れると、ざらざらした。
「でもあたしには本当に可愛いんだ美月ちゃんが。しばらく会わないとねぇ、なんかおかしくなる。禁断症状出てくるんだよ」
 姉貴は四年前に離婚している。
 八年続いた結婚生活。子ども好きでありながら、あえて作らなかったらしい。
 どうしてだろうと当時は思ったものだ。だが離婚したいまとなっては、それで良かったと思う。
 いたら大変だった。娘ができた俺たち夫婦に、こうして会いに来てくれることもなかったかもしれない。
 汗をかくほど娘と真剣に遊んでくれることも。
「姉貴、美月生まれてから月に一度は必ず遊びに来るくらいだもんな」
「やあだって、会いたいんだもん。美月ちゃんが赤ちゃんの頃は週イチで行ってた時もあったし。まあ、あーちゃんは迷惑してたかも。義理の姉が毎度毎度押しかけてきてさあ。落ち着かなかったかもねぇ」
 「あーちゃん」と呼んでいる嫁さんのことを、姉貴はよく気にかけている。頻繁にここに来る自分を嫌に思っていないかと。
「だぁから。あいつなら大丈夫だって。むしろ姉貴が美月とたくさん遊んでくれるぶん、手ぇ空いて助かってるって言ってるぜ?」
「本当? ならいいんだけど」
  そういえば。
  娘を寝かせてくると言っていた嫁さんが戻ってこない。そのまま一緒に休んでしまったのだろう。
  その嫁さんが茹でてくれた枝豆は、ちょうどいい塩加減で美味かった。皿にのびる手がとまらない。姉貴も同様だった。 
 使われていない小皿に、皮だけになった緑がどんどん増えていく。
 姉貴が静かに口をひらいた。
「母さんが元気だったら、美月ちゃんのことすんごい喜んでたんだろうねぇ」
 豆を一粒口に入れる。ただ黙ってうなずいた。
  そうだったろう。
  父さんのことも放っておいて、大宮から毎日家に来ては娘の世話をしていたかもしれない。下手すればここに住み着くくらいの勢いで。
 だけどそれは元気でいてくれたらの話。
 母さんは、七年前に病気で死んでいる。
 嫁さんと付き合いはじめて間もなくの頃はまだ、母さんも元気だった。彼女ができたら家に連れておいでとうるさいので、何となくの気持ちで母さんに嫁さんを紹介した時のことだ。
「あんたこの子と一緒になんなさいよ」
 と、思いきり先走ったことを口にされ、大いに困ったことがある。嫁さんを気に入っての発言だろうが、何か予期してのことだったのかもしれない。今にして思えば。
 ただ、ひとり暮らしだった嫁さんのアパートに押しかけて、あれこれ世話しに行ったと聞かされた時は、ひたすらに呆れた。
 明るくてお節介。だけどお節介すぎるところは勘弁して欲しかった。いまは昔の、笑い話になってしまったが。
 俺が結婚したことも、姉貴が離婚したことも知らず、母さんは死んでしまった。
 エアコンの強風が、前髪にぶつかっている。
 残っている枝豆はあとわずか。一方で、残骸の緑のほうは皿からあふれんばかりだ。
 テレビもついてない、ステレオから音楽も流れていないリビング。子どもが寝ついてしまうとここは本当に静かになる。冷房もだいぶ効いてきて心地よい。
 枝豆の汁で濡れた指をおしぼりでぬぐっていると、姉貴が唐突に切り出した。
「あのさあ。ぜんぜん母さん、あたしんとこ遊びにこなくなったんだよね」
 母さん、あたしんとこ遊びにこなくなった。
  ああ、あれかと思う。久しぶりのあれ。
  姉貴はいわゆる「見える人」で、霊体験を昔から何度か聞かされてきた。母さんが亡くなった夜も、一緒の部屋にいた俺と姉貴のところに会いにきたらしい。二人を見てにっこり笑い、すうっと消えたらしい。
 そんなことを聞かされても、見ていない人間としては何とも言えない。だけどあの夜、自分なりに変だと思うことがあった。
 姉貴と一緒にいたあの部屋で、ほんの少しの間、あの匂いがした。
 病室に横たわっていた母さんの匂い。
 線香の匂いに似ていた。年寄りの匂いというか、何年もあけていないたんすの匂いというか。
 母さんが死にゆく前の匂い。
「へぇ。母さん来なくなったの?」
 その夜の後も何度か母さんに会ったという姉貴の発言も、まんざら嘘ではないと思っている。だから何となく聞いてしまう。
 母さんの幽霊。
 興味はある。
 会いたいような。会いたくないような。
「そう。うーん、三年ぐらい前からかな、来なくなったの。いつもだいたい命日に遊びにきてくれてたんだけどねぇ。今年の命日はどうかなって待ってたんだけど、やっぱり来なかったわ」
 姉貴は実に淡々と話す。枝豆を口に入れながら。
 母さんの命日は五月だ。もう三ヶ月以上過ぎている。
「もういいかげん、あの人も成仏しちゃったんじゃない? 毎年会いにこられても、何か落ち着かないでしょ姉貴」
「うーん、でも」
 姉貴がさみしそうに笑った。
「また会いにくると思ってたんだけどなぁ。母さん何か、言いたいことでもあるのかなって思っちゃって」
「何で?」
「いやちょっと気になることあってね? ほら、母さんが死んだ時間のこと」
「は?」
「ん? あんたに言ったことあったでしょ?」
「いやだから何が」
「あれ話してなかったっけ? じゃあ母さん死んだ時間て覚えてる?」
「覚えてねぇよそんなの」
「あーあ。白状な奴。あんた母さんの命日でさえ忘れてたでしょう。あたしが五月に電話した時なんて、キョトンとしちゃっててさぁ」
「あぁ忘れてた」
 姉貴が舌打ちをした。
「覚えときなさいよぉ」
「いや盆の時はちゃんと帰って墓参りしてるし」
「それとこれとは別っ」
「分かったよ。忘れないようにするけどさぁ。うちの母さんそんな、ちょっと命日忘れたくらいで怒るような人じゃないってぇ」
「いや分かんないよ? 忘れないでよって思ってるかもよ? その証拠に、母さんの死んだ時間にまつわる不思議話、話したげよっか?」
「何」
「母さんが死んだ時間って昼の十一時二十一分なのね。1121」
「おう」
 相槌をうってから、待てよと思う。
 1121って。 
「そん時あたしが乗ってたマーチのナンバーが1121」
「…へぇぇ」
 素直に驚いた。
「しかもね? 母さんが死ぬ前日、あたしの元旦那が出張先で泊まってたホテル。部屋の番号がさ」
「1121?」
「そう」
「…うわぁ」
 笑みを浮かべてみるものの、こわばってしまう。
 背中がすっと冷たくなっていく。
 姉貴の顔が見れず、皿からあふれそうになっている枝豆の残骸をぼんやり見ていた。
「ここのマンションの部屋番号も、そうだよね?」
 姉貴に駄目押しされて、黙るしかなかった。
「ねぇ。これってさ、絶対偶然じゃないよね? あたしはさあ。何となく母さんがうちらに、とどめといて忘れないでね、って言ってるような気がするんだよね」
「ああ、まぁ」
 そうなんだろうな。と思いつつも笑ってしまった。動揺をおさえたくて。落ち着きたくて。
「だぁからあんた、駄目だよ? たまには母さんのこと思い出して、心の中ででもいいからちゃんと手を合わせてあげな」
 忠告を受けても何となくうわの空だった。
「ああ」
 エアコンの風が、相変わらず前髪を揺らしている。
 少し寒い。リモコンを手にとって風向きを変えた。
 姉貴に言われなくても分かっている。
 命日はうっかり忘れてしまったけれど、あの、絶対的な存在は自分の中から消すことなどできない。
 明るく、お節介だった母さん。


 もう休むからと、姉貴は別室へ行ってしまった。
 ダイニングテーブルのものを簡単に片付けて、リビングのエアコンも明かりも消す。
  嫁さんと娘が眠る寝室のドアをあける。豆電球のわずかな明かりがついた部屋は、もわりと蒸し暑かった。かすかに汗くさい。窓をあけているのに風は入ってこない。入ってくるのは車道の騒音と、わずかばかりの虫の声。
 だけどいまはエアコンで冷えた部屋にいるよりもいいと思った。この、汗の匂いでむっとした部屋にいるほうが安らぐ。この部屋で、嫁さんや娘と一緒にいるほうが。
 六畳の広さのところに布団を二枚敷いている。うちのひとつに二人が寄り添って寝ていた。かけているのはタオルケットだけ。そのタオルケットも腹に添える程度。ぺらぺらのワンピースを着ている嫁さんの足なんか、無防備にはだけていた。
 二人の足元からまわりこんで、空いている布団に横になる。娘の顔をのぞきこむために肘をつくと、嫁さんが動いた。ぐるりとこちらに顔を向ける。
 豆電球のうすい光の下で、嫁さんと目が合う。
 少しだけ驚いた。
「起きてたの?」
 嫁さんがうなずいた。小声でささやく。
「興奮してるのか、美月が何度か起きたんだよね。でももう落ち着いたみたい」
「そっか」
 手をのばし、足はがに股にひらいた格好で娘が寝ている。わずかに口をあけて。呼吸するたび上下に揺れる胸。
 日ごろの成長を感じていてもまだ二歳。顔も体も手も足も、すべてが小さい。
 すやすやと眠る顔。無邪気で可愛いのだけれど、だんご鼻というところがいただけない。俺に似てしまった。
「ぶっさいくだよなぁ」
 思わず口をつくと、そんなことないよ。と嫁さん。二歳の小さな胸に手をあてて、やさしくさすり始めた。
「美月は可愛いよ。世界で一番可愛い」
 可愛い。
 二人、娘を間にはさんだ姿勢で、しばらくその寝顔をながめていた。ひらいた窓からは車道の音。虫の音。
 暑かった。
「なあ」
「ん?」
 嫁さんがきょとんとこちらを見る。
「美月が生まれた時間て、夜の十一時二十一分だったよな?」
「うん、そう。ここの部屋番号と同じ1121だから絶対忘れないよね」
 でも突然どうしたの?
 嫁さんの問いかけに、ただ首を振った。
「いや。ちょっと思い出しただけ」
 母さんが死んだ時刻のことは何となく言わないでおこうと思った。まあそのうちに話そう。
「ついでに、美月の生まれた時の体重は3148グラムだからね」
 何も知らず、体重のことまで話す嫁さんがおかしかった。小さく笑って、ふたたび娘の寝顔を見つめる。
 見ただけて肌が湿っているのが分かる。鼻の頭には汗の粒が浮かんでいた。髪も風呂上りかと思うほど濡れている。子どもは特に頭からの汗がすごい。その汗の匂いも普通ではなく、酸っぱいほどだ。
 この部屋が匂うのは、たぶん娘の汗が大半のもとだろう。汗が、寝具に染みついてしまって匂う。
 娘のぐしょぐしょの髪を撫でた。
「すんげえ汗だな」
「子どもは汗っかきだからねぇ」
 しょうがないよと嫁さんが笑った。
 すっかり寝入ったらしい。話し声にもまったく反応せず、娘はただひたすら眠っている。誰かにそっくりな顔をして。やすらかに、けれど力強く呼吸して。
 たっぷりと汗をかき、すぐとなりで眠っている。

 「了」
 2008.8(c) odagiri sunao

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