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小説 H
 -1-

 昨日おとといと熱があり、学校を休んだ。
 具合が悪かったのは土曜からだけれど、土曜、日曜は学校自体が休み。
 寝込んでいた四日間はあたしにとってかなり密度の濃いもので、学校に行くことが久しぶりのように思えた。
 三年二組。
 四月。もう、通学途中に見える桜は散ってしまった。
 クラス替えしたばかりの時期。いつもなら教室に入ることが落ちつかないのだろう。慣れないクラスメイト。慣れない教室。慣れない自分の机。慣れない椅子の座り心地。
 けれど今年は違った。
 慣れないのは教室や机や椅子だけ。窓から見える景色がいつもより遠く感じるだけ。
 うちの学校は二年から三年に進級するとき、クラス替えをしないのだ。
 受験生になったという自覚がない連中の騒ぎ声が、ドアを開けたままの教室から聞こえてくる。知っている声ばかり。
 ああ。一週間前はくもりのないつやつやした廊下だったのに。いつのまにか靴の跡でくすんでいる。
 おはようを言うこともなく教室に入り、まわりを見わたしてみて「あれ?」と思う。
 感じが違う。
 二年の三学期から定位置だったあたしの席に、男子が座っている。教壇すぐの席。つまり一番まえの席だ。
 けほけほと咳をしながら、もう一度まわりを見わたしてみる。
 オハヨウ! と手をふりつつ近づいてきたのは仲のいいチカコだ。
 長い髪が胸元にたれて揺れている。白のブラウスに紺色のカーディガン。チカコのカーディガンには結構、毛玉ができている。ひとのことは言えないけど。
「綾子熱けっこう出たんだってぇ? 学校はじまったばかりなのに、災難じゃん。もう大丈夫なの?」
「あー、熱はさがったんだけど。まだ咳があってさぁ」
 それより。
「ねえ、あたし休んでる間に席がえ、した?」
「見ればわかるじゃん」
 あっけらかんとチカコ。
「えー。なんで人が休んでる時に席がえなんかすんのさぁ。誰よ、言い出しっぺはぁ」
「いや近藤が。一応変えるかぁ?って」
 近藤。去年と同じ担任だ。
「席がえするなら、学校がはじまったその日にやれよって感じじゃん? なぁんかうちの担任って中途ハンパ」
 というか、あたしのいない時に席がえをするなという感じ。
 でも。
 学校を休んた時にクラスの役員を決めていて、勝手にやっかいな委員にさせられるのに比べたら、ましか。
「でも綾子、いい席だよ」
「は?」
 いい席。
「そういやあたしの席どこ」
「あそこ」
 チカコが後ろを振り返って窓がわを指さす。
 後ろのほう。机の上にあぐらをかいて座り、男子たちに囲まれて談笑している顔を見てぎょっとする。
 ワックスかなにかをつけてツンと立たせている髪の毛。窓からはいりこんでくる陽に照らされてもそれは真っ黒なまま。ヘアスタイルのせいもあるけれど「雨上がり決死隊」の宮迫博之にどことなく似ていて、クラスの女子の間でミヤサコと呼ばれている男子。
「ミヤサコのとなりの席。窓に近くて、しかも後ろの席だよ? よかったじゃん。だっていままで綾子、いちばん前の席だったもんねぇ」
 チカコがのん気に言うのを、から笑いで返した。
 何も知らないからチカコはそんなことが言えるのだ。
 何も知らないから。


 窓際の後ろから二番目がミヤサコ、いや、北島英人ひでとの席。
 そのとなり。それがくじ引きで決まった、あたしの新しい席らしい。
 北島の席を囲んでいる男子の背中。三年目にもなると学ランもさすがに痛んでくる。
 学ランの黒い生地が、角度によっててかてかと光って見える。
 らくだ色をした机。端っこに大きな穴があいていた。
 年季のはいった穴だった。以前ここに座っていた三年生が彫ったのだろう。こんなことをするのは男に違いない。
 ―――テストの時こういう穴って厄介なんだよな。解答用紙にシャーペンがぶすっと穴に刺さっちゃったりして。
 そんなことを悠長に考えている場合じゃない。
 どさり、鞄を机に置くと、背中を向けていた男子がひとり振り返り「おお」と声をあげる。
「田宮じゃん」
「なんだ。お前北島のとなりなんだ」
「風邪ひいたんだってぇ?」
「バカでも風邪ひくんだな」
 次々とあがる声。笑い声。
 うるさいよ。バカはお前らだ。
 ややむかついて連中をにらみつけてやると、いくつかの学ランに囲まれていた北島の顔が見えた。
 目が合った。
 とたん、北島の顔から色がなくなる。男子達とつい先ほどまで、破顔させて大声を出していたのに。
「そんでさあ」
 何事もなかったかのように北島がまわりの連中に話し出す。
 少しかすれた感じの、大きな声。耳に残る声。
 その声に続いてわき起こる笑い声。
 あたしを見た時のあの、北島のつめたい目。みじめな気持ちがふたたび湧き生まれる。
 にぎやかにやっている左の席のことは、あまり意識しないことにしよう。そう思いながら鞄をひらき、筆入れや教科書を机の中に入れていく。
 その時。
 手がすべって、現代文の教科書を床に落としてしまった。椅子に座ったまま屈んで教科書を取る。屈みこんだらまた、喉がかゆくなってしまった。ケホケホと咳き込む。
 クリーム色の床。すぐそこにある、いくつもの大きな足。二重線の入ったくたびれた校内用シューズ。
 左上から自然に耳に入ってくる北島の楽しそうな声。どんな顔で笑っているのか、容易に想像できてしまう声。
 だめ。
 意識しないようにしても、だめ。
 ものの十秒もしないうちにあたしの決意はけつまずいてしまった。あっけない。
 よりにもよって、どうしてこの席に。
 現代文の教科書を机にしまいこみ、誰も気づいていないだろう溜息をこぼし、両肘をつけて頬杖する。黒板はチョークの粉を感じられない、まっさらな状態。授業がはじまる前は、こんなにきれいなのだ。
 担任の近藤が教室に入ってくるのに、まだ五分もある。
 受験生だというのに、まったく危機感のない笑顔だらけの教室。参考書を開いている人なんか見当たらない。
 席を立ってチカコのところにでも行こう。そうでもしなければ、ごわごわになった気持ちがほぐれない。
 でも。
 たとえチカコのところに行っても。気持ちは、ほぐれないかもしれない。

 ・・

「いまの席、やだなぁ」
 三クラス合同の体育の時間。ぽそっとつぶやいた台詞を、隣りのチカコはしっかり聞いていたらしい。
「え? なんで?」
 きょとんとしながらあたしを見ている。
 とっさに答えられなくて、口を半開きにして固まってしまった。膝をかかえて座ったまま。
 にぎやかというよりも、うるさいという方が合っている体育館は、緑色のネットで二つに仕切られていた。半面でバドミントンのコートが二つ。もう一方の半面でバスケットボールのコートがひとつ。
 三年の体育は好きなように選択できる。
 あたしとチカコは希望者の多いバドミントンを選択していた。
 軽い準備運動。ラケットを持っての打ち合い。それでだいたい十分。それが終わったらすぐ、試合に入る。
 試合が回ってくるのは一時間に一回。しかも、あたしなんて下手くそだからあっという間に終わってしまう。あとは他のひとの試合を見学してればいい。おとなしく座って。
 楽なのだ。だから、バドミントンを選択した。
 バドミントンのコートから少し離れたところで座っている、ネイビーブルーのジャージ軍団。授業中であるにも関わらず、好き勝手に話をし、騒いで、笑っている。あたしもチカコもその中に混じっていた。
 長い髪の毛を二つに束ねたスタイルでチカコはあたしを見ていた。
 (いまの席、やだなあ)
 (え? なんで?)
 緑色のネットで仕切られた向こうの、バスケットコート。そこには北島の姿があった。
 それほど背は高くない。ほかのひとが見てもパッと見、目につかない。決してかっこよくはないから。
 でも、試合を見続けるうちに、彼の存在は際立ってくる。
 彼は、誰よりも早く走ってる。誰よりも動作が素早い。シュートする回数こそ少ない。けれど、誰よりもボールに触っているのは北島だ。誰よりもたくさんパスを送っているのも。
 髪の生え際を汗でぬらして、コートを走り回ってる人。あんな楽しそうな、あんな真剣な顔をしているのを堂々と見られるのは、いまのこの時間ぐらい。
 ちょうどいま。北島がボールを持った。ドリブルをしだした。
 ボールが下に叩きつけられるたび、床が震動。ネット越し、遠くに座っているあたしのお尻も小さく震える。
「……だってさあ。うるさいんだもん。いまの席」
 二重線の入った校内用シューズ。白、というよりねずみ色になってしまったシューズ。つま先のところを片手でいじる。
 え? とチカコが隣りで聞き返している。きょとんとした表情がうかがいとれる声。
「となりが北島だと、クラスのうるさい男子連中が集まってくるじゃん? それがなんか、なんか……やなんだよねぇ」
 ええ?
 チカコがまた聞き返す。あたしは相変わらずシューズの先を手でいじっていた。規則的に編みこまれた糸。固い繊維がところどころぼそぼそだ。この靴を何回か洗い磨いたらこうなった。
「そんなさあ。綾子なんて、うるさいの全然気にしないキャラじゃん。なに言ってるのさ大人しっ子ぶっちゃって」
 ケタケタっとチカコが笑いだした。
 うつむいたままあたしは頬をふくらませてしまう。
 それは。言われた通りなんだけれども。
「そういやさあ。綾子ってミヤサコって呼ばないよねぇ。北島って言うよね、ちゃんと」
「え、ああ」
 言えないんだもん。
「……綾子さあ、クラスのみんなとぜんぜん普通に喋ってるけどさ、ミヤサコとはあんまし喋んなくない? っていうか、あたしミヤサコと綾子が喋ってんの、見たことないかも」
 一瞬だけまわりの音が消えたように感じたのは、あたしだけだろうか。
 いま、バスケットボールを持っているのは誰なんだろう。ボールが下に叩きつけられ、震動する床。
「ねえ。田宮さん」
 背後からあまりなじみのない女子の声。同時に右肩をちょんちょんとつつかれる。
 振り返ると、となりのクラスの女子が斜めうしろに座っていた。あたしと似たようなショートカットの女子。
 斎藤さんという人だ確か。下の名前はたぶんリョウコ。中学校が同じだったのだけれど、クラスが一緒になったこともなければ、話をしたこともほとんどない。
 その斎藤さんのとなりに、目の大きな、色の白い女の子が座っていた。
 華奢。肩までのびた髪は、染めてなさそうなのにきれいな栗色。触れるととっても滑らかそう。
 この子はフルネームで知ってる。松代まつしろ奈々子さん。
 うちのクラスの男子が「可愛い可愛い」と話しているのを聞いたことがある。
 どこの誰が人気がある、というのはあたしにはよく分からない。けれど、松代奈々子さんに関してはきっぱり言える。
 ああこの子、もてるんだろうなあ。
「ちょっと聞きたいことあるんだけど。いい?」
 あたしに言ったあと、斎藤さんがチカコをちらっと見ていた。
 このひと貸してよ。といった風に。
 
 
 チカコから離れたというより、チカコを追いやってしまった、という感じがしてならない。
 バドミントンのコートを囲んで座り、騒いだり笑ったりしている集団。そこから少し離れた場所へと斎藤さんに連れていかされた。松代さんも一緒についてきた。
 ぺたんと座り込むと正面に緑色のネット。先ほどより離れてはいるけれど、バスケットコートの全面が見えるようになった。ボールと一緒に動く男子たち。
 北島がいた。
 立ち止まって、まくりあげたジャージの袖のところで汗をぬぐっている。
 北島を確認してからすぐさま顔をずらし、床に視線をおとす。体育館の照明でぴかぴかに光る板。シューズの跡。
 すぐ目の前ではバドミントンの試合だって行われているのだ。バスケットコートにばかり気を取られている。
 斎藤さんが唐突に言った。
「あのさあ。田宮さんて北島くんと仲いい、よね?」
「はっ?」
 ぎょっ。とは、こういう時に使う言葉なのだろう。
「えっ、そんな……あたしあんまり、北島と仲、よくないよ?」
 たどたどしくなってしまう。落ちつかないと。
 斎藤さんの顔が見れない。膝をかかえてバドミントンの試合に目をやる。
 目に入ってなんかいないのに。
「そうなの?」と斎藤さん。
「だって田宮さんてさあ。中学のころ、北島くんとクラスも委員会もおんなじだったし。それにたまに、一緒に帰ってなかった?」
「ああー……うん」
 曖昧に笑って返すことしかできない。
 北島のことを「ミヤサコ」ではなく「北島くん」と女子が呼ぶのを久しぶりに聞いた気がする。北島くん。
 斎藤さんが続ける。
「北島くんと仲がいい、ってずっと思ってたんだよね。中学のころなんか一時期、北島くんと田宮さんて付き合ってるんじゃない? っていう噂もあったんだよ?」
「えっ」
 北島とあたしが付き合ってるという噂。
 思わず斎藤さんを見つめ、あらためて驚きの表情をつくる。
「北島くんってさあ、けっこう人気あったんだよね。中学校の時も。あたしクラス違ってたし、北島くんと話しなんてしたことないからあれなんだけど。でも、田宮さんとのこと気にしてた子、まわりにいたんだよ?」
 斎藤さんは真剣顔。そのとなりに座っていた松代さんも、同じ顔。
 松代さんと目が合う。すると彼女は、ぱあっと顔を赤らめてうつむいていまった。
 ビュッ、と空気が切られる音。
 これはすぐそばで試合をしている、バドミントンのコートから。ラケットから生まれた音。
「じゃあ、北島くんと付き合ってたわけじゃないんだよね?」
 斎藤さんに念を押され「うん、そう」と静かにうなずく。
「いまも?」
 うん、そう。
 仲がよかったのも一緒に帰っていたのも、中学までの話。
 北島とは付き合ってない。付き合っていたわけでもない。そう言ったとたん、斎藤さんの表情がふっとやわらいだのをあたしは見逃さなかった。
 となりにいた松代さんはうつむいたままだった。けれどわかる。
 きっと。
 斎藤さんと同じようにほっとした顔をしてる。
 ビュッ、と空気が切られる音。バドミントンのシャトルが小気味よい音をたてて飛んでいく。
 バドミントンコートを囲んで談笑しているネイビーブルーのジャージ。体育館の床は誰かの身体が飛んだり跳ねたりするたびに震動する。緑色のネットの向こうのコートで、誰かがボールをドリブルするたびに。
 さきほどよりもかなり優しい口調で斎藤さんが言う。
「じゃあさ。いま、北島くんって、ほかに付き合ってる子いるのかなあ? わかる? 田宮さん」
「えっ」
「好きな子いるか、とかって言うのも、わかる?」
「そんなの」
 わかるわけない。
 げほげほ、っと咳をする。まだ風邪はしっかり治っていない。こんな風にとつぜん、喉は痛くなりだす。
「だって、あたしが北島と仲良かったのって中学までの話で、いまはもう、ほとんど。話、しなくなっちゃったし」
 ほとんど、と言うよりまったく。
 二重線の入ったシューズの先をまた、いじりはじめる。繊維が少しぼそぼそしてしまっているシューズ。
「ちょっとでいいんだあ」
 斎藤さんがささやく。
「これから、北島くんのこと教えてくれれば嬉しいんだけど。ごめんねぇ? あたしさ。田宮さんくらいしかこういうの頼めるの、思い浮かばなくって」
 シューズの先をかりかり爪でひっかけながら、あたしは返事に困っていた。
 顔をあげ、斎藤さんを見つめ、そしてそのとなりの松代さんに目をやる。
 大きな、潤んだ目。顔が小さいうえ、あごもほっそり。
 同性のあたしでも見とれてしまう可愛い人。
「……ああー。うん」
 曖昧にうなずいて、つくり笑いを浮かべてみせた。
 あたしはまた、同じことを繰り返そうとしている。

 にぎやか、というよりうるさいという言葉の方が合う体育館の中。授業そっちのけで騒ぐ集団。
 バドミントンのシャトルが飛んでいく音。バスケットボールが下に叩きつけられ、どしんどしんと震動する床。
 熱は下がった。体調は良くなってる。
 けれど喉だけはずっと、いがいがしている。
 

© ODAGIRI SUNAO 2003

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